野次馬ライトスタンドBACK NUMBER
男・村田修一、夏場の大変身。
もう“乙女”とは言わせない――。
text by
村瀬秀信Hidenobu Murase
photograph byKyodo News
posted2013/09/11 10:30
9月7日には阪神、藤浪の高校時代から続く甲子園不敗記録を「17」で止める決勝2ランを放った“男”。勢いは当分止まりそうにない。
「9番の次は何番かわかっているか?」
'05年交流戦。相変わらず荒っぽい打撃を続ける村田を、当時の男気監督・牛島和彦は、それまで定位置だった7番の打順を9番に降格する。
「9番の次は何番かわかっているか?」という牛島監督の問いに「1番ですか?」と答え、牛島監督に「アホか、次はないんじゃ!」と一喝されると、この試合の9回に「命を懸けて打ちました」と決勝本塁打を放ち、牛島監督に「ずっと9番に置いておこうかな」と言わしめたエピソードは野球界の定番小噺としてだけでなく、“男・村田”を象徴するものとして世の中に広く知られている。
そして、打撃はホームランか三振か、守備は怠慢プレーも目立つという荒っぽさだけが「男」を感じさせる唯一の要素だった村田が、この辺りから本物の男への変化を見せる。
当時の横浜のチームメイトはこんなことを言っている。
「村田は目的意識がしっかりしていましたね。『クリーンナップを打ちたいのか?』と聞いたことがあったんですけど、まだ若いのに『はい、4番になります』ってハッキリ言っていましたからね。その頃からバッティング練習でも、これまでずっと場外ホームランだったのが、意識的に右打ちをするようになってきたんですよ。『4番を打つには打点ですから』って」
“男・村田”大活躍と裏腹に、100敗が近づくチーム。
プロ4年目となる'06年の6月1日。プロ入り初の4番で出場したその日以来、'08年北京五輪での離脱、'09年WBCでの故障離脱以外は4番の座を守り続けた。'07年、'08年と2年連続で本塁打王を獲得し、ランナーがいれば右打ちで打点も3年連続で100打点を超えるなど、名実ともに横浜の看板打者となった“男・村田”は本当に頼りになった。
ゆったりと打席に入り、バットを高く掲げて長打を放つ。その姿は、4番打者のそれであり、“男”そのものだった。特に46本塁打を放った'08年は、打率も323.得点圏打率も3割5分と結果を残した。
しかし、村田の飛躍とは裏腹に、この年からチームは100敗目前の最下位へと突入する。
村田がいくらホームランを打とうがチームは勝てない。しかも、翌'09年のWBCで右太ももを故障して以降成績が下降していくと、これまでの「男」然としていたフテブテシイ態度が槍玉に上がるようになり、素行の悪さや、お山の大将的なイメージばかりがクローズアップされていく。