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<最速キングの苦悩に迫る> ウサイン・ボルト 「レジェンドは悪夢の先に」
text by
及川彩子Ayako Oikawa
photograph byDPPI/PHOTO KISHIMOTO
posted2012/07/03 06:01
なぜ決勝でフライングを犯してしまったのか?
お得意のダンスステップを踏んで観客を喜ばせると、突然、しゃがみ込んで祈りを捧げた。涙はなかった。ただ、うれしかった。
その直後、100mのフライングについてボルトが口を開いた。
「不安だった。不安を抱えて大会に臨んだけれど、(予選、準決勝で)いい走りができたので、決勝前は思った以上に気持ちが高揚してしまった。ここに来るまで必死に練習してきて、自分でそのチャンスをつぶしてしまったことが悔しかった」
そして、こう続けた。
「落ち着くこと、(今回)それを学んだ」
言葉にできないほど大きな不安を抱えて臨んだ予選、「勝てる、勝ちたい。早く走りたい」と急いた気持ちを抑えることができなかった決勝。わずか2日間の間にローラーコースターのように精神的なアップダウンを経験したせいか、一番大事な場面で制御ができなくなったというのが本音だろう。
「ボルトはプロテスト(抗議)すべきだった」(マイケル・ジョンソン)
テレビの解説者として現地入りしていた元200m世界記録保持者のマイケル・ジョンソンは、ボルトのフライングの後の行動に疑問符をつけていた。
「120%自分だと思ってもユニフォームを脱いじゃダメだ。プロテスト(抗議)すべきだった。ボルトならプロテストすれば認められたかもしれないんだから」
2010年にフライング一発失格というルールに改正されてからプロテストする選手が増加した。ブロックがずれた、カメラのフラッシュが目に入ったなどの理由で。しかしフライングをした瞬間、ボルトの頭は真っ白になり、自分に「抗議」という選択肢があるということにも気づかなかった。それほど取り乱していた。
「彼もまた、人間だ」
グレン・ミルズコーチはスタジアムを立ち去る際に、こう発した。
ロンドン五輪、ボルトは自分自身に打ち克つことができるか。
世界選手権から12日後の9月16日、ブリュッセルで行なわれたダイヤモンド・リーグ最終戦の100mにボルトは出場。今季世界最高の9秒76で優勝し、テグの悪夢に一応の決着をつけた。
「これが世界選手権で出すべきタイムだった。来年はもっと違う、最高の年にしてみせる」
その後1カ月のオフを経て、すでにロンドン五輪へ向けてトレーニングを開始している。
北京五輪以降、我々はボルトが人間だということを忘れ、いつも期待に応えてくれるスーパーマンであってほしいと思ってはいなかっただろうか。超人は超人であり続けてほしい、と。 ロンドンでは今回以上に世界の視線がボルトに集まるはずだ。勝利だけではなく、記録にも当然期待がかかる。尋常ではないプレッシャーが襲いかかるだろう。さらにテグで100mを制したブレイクは、200mでもボルトの世界記録を脅かす存在になりつつある。
だが、過去の自分を乗り越えなければ、新たな自分を見いだすことはできない。
立ち向かえるのは、生身の人間であるボルトだけだ。
「自分らしくありたい。そして楽しみたい」
ボルトが自分自身に打ち克ち、自分らしくいられれば、我々の想像を超えたパフォーマンスをみせてくれるに違いない。
ロンドンでの彼のライバルはただ一人。そう、ウサイン・ボルト、自分自身だ。