スポーツの正しい見方BACK NUMBER
オシムとジーコの違いとは?
text by
海老沢泰久Yasuhisa Ebisawa
photograph byTakuya Sugiyama
posted2006/08/24 00:00
サッカー日本代表の監督がジーコからオシムに替わった。
ぼくはかねてからオシム監督を面白い人間だと思っているので、彼の監督就任にはまったく異論はない。
チームをつくる手腕もジェフで実証済みだ。J2落ち候補の常連だったジェフをAクラスに立て直しただけでもおどろきだったのに、去年はチームの主力だった村井と茶野をジュビロに去られたにもかかわらず、そのまま平然と指揮をとってチームを下位に沈めなかったばかりか、ナビスコカップまで制してしまった。誰にでもできることではない。
しかし、それはそれとして、代表監督に就任してまだわずかのあいだのことではあるが、彼の「考えて走るサッカー」を報じるマスコミの様子を見ていると、まだジーコのことを忘れていないぼくは、いささかジーコが気の毒になるのである。
ジーコは、前任監督のトルシエが「フラット3」を軸に選手を軍隊のように命令どおりに動くように強制したのに対し、それではいつまでたっても命令されたこと以上のサッカーはできないといって、選手自身に考えさせる「自由と創造性」のサッカーを目指した。ぼくはそれを支持した。そもそも、人が強制したことに黙ってしたがうなどということは嫌いだし、見ているのもいやだからだ。それに、トルシエの下で代表をつとめた選手たちも、1次リーグは突破したけれども面白くなかったと批判的だったのである。
しかし、選手の自主性にまかせてあまりこまかな指示を出さないジーコのそのサッカーは、多くのマスコミにジーコの無能の証であるかのように受けとられ、最後はドイツで惨敗したことによって完全に失敗の烙印を押されたのである。
それなら、彼らはなぜオシム監督のことも同じように批判しないのだろう。
「わたしは選手に完全な自由を与えている。ピッチの上で監督が何をいうか待っていたら試合に負けてしまう。待っている選手ならいらない。サッカーは自分でプレーするもの。対戦相手は待ってくれない」
これはジーコの言葉ではない。オシムの言葉だ。
そしてわれわれは、最初の代表合宿の平成国際大学との練習試合でその実践を見せられた。オシム監督は先発メンバーを決めただけで、各選手のポジションについては自分たちで決めろといって何の指示もしなかったのである。そんなことはジーコですらしなかった。
ところが、ジーコは選手に組織的な戦術を与えないと批判され、オシム監督のやったことは、選手が自分たちの判断でポジションやシステムを考えてうまくやったと賞賛されたのである。
二人の共通点はそのほかにもある。オシム監督は日本人の特性はスピードと敏捷性だといって速いパス回しを求めているが、ジーコもつねにそれをいっていた。しかし、一方は失敗の烙印を押され、一方は連日のようにマスコミに賞賛と期待の言葉がおどる。何とも怪訝なことだと思ってぼくはその様子を見ているのである。
(以下、Number662号へ)