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荒川静香を救った一言。
text by
田村明子Akiko Tamura
posted2007/01/11 19:54
全日本選手権まで滑ったSPは、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」だった。ヴァイオリンの馴染み深いメロディではじまり、フリップへ踏み切る部分もパガニーニの特徴的な細かい音符が続く。その細かいリズムを体が拾ってしまうため、本来荒川が持っているタイミングとずれたということだ。実際GP中国杯でもフランス杯でも、彼女はSPのフリップを失敗していた。
もともとフリップは、荒川が得意なジャンプではなかった。
女子が日常的に跳ぶ3回転の中で、もっとも難易度の高いのがルッツ、その次がフリップとされる。ルッツは、外側のアウトサイドエッジにのって踏み切るジャンプ。フリップは、反対に内側のインサイドエッジで踏みきる。だが女子の大半はルッツが苦手で、踏みきる瞬間きちんとアウトサイドエッジに乗ることができていない。
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インサイドエッジで跳ぶルッツは技術的にフリップになり、業界用語で不良品という意味をこめ「フルッツ」と呼ばれる。だが非常に高度な技なので、あまり厳しく減点されることもないまま今日に到っている。長野五輪のタラ・リピンスキー、ソルトレイクシティ五輪のサラ・ヒューズも、ついに「フルッツ」のまま金メダルを手に入れた。
荒川のルッツは、きれいにアウトサイドエッジにのった教本のようなルッツだ。だが逆に、フリップが弱い。ついアウトサイドエッジに乗ってしまいがちになるため、本人もやりづらいのだろう。
後で思うと、フリップをきちんと跳ぶためにSPの音楽を変えたことは、おそらく荒川に必要なジグソーパズルの最後の一片だった。
「いやあ、コーエンいいですねえ。気の強い猫みたいで、撮っていてゾクゾクきました」
日本の某新聞社のカメラマンがそう言った。彼が言うとおり、コーエンのSPは気合のこもった素晴らしい演技だった。
2月21日の夜、女子のSPでコーエンがトップに立ち、スルツカヤが僅差で2位、無事に3回転フリップもこなした荒川が3位だった。1位と3位の点差は0.71ポイントという、ないに等しい接戦だった。
コーエンはSP後の会見でこうコメントした。
「これで(僅差なので)SPはなかったも同然になった。私たちは同じスタート地点からフリーに挑むことになります」
だがコーエンは間違っていた。彼女たちのスタートは同じではなかった。
コーエン、スルツカヤ、荒川というSPの順位には、実は人々が思っている以上に重要な意味があったのだ。