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【独占告白】PL学園を率いて甲子園58勝…中村順司が語るKKの記憶「桑田は最初の遠投から抜きん出ていた」「清原に伝えたのは“合掌”」
私が母校・PL学園の監督に就いたのは1980年の夏、34歳の時でした。前任の鶴岡泰監督が率いた1978年の「逆転のPL」の西田真次と木戸克彦のバッテリーに憧れて、有望な選手が集まってくるようになった時期でもありました。
その頃の大阪は豊田義夫監督(近大附)、松岡英孝監督(北陽)、村井保雄監督(興國)、網智監督(大鉄=現・阪南大高)ら名将揃いで、そんな監督たちと喧嘩したところで私では相手にならない。だからもう、選手たちにはとにかく普段の力を試合で発揮できるよう、身体の使い方を「ワンポイント・アドバイス」することに徹しました。脇の締め方、肘の使い方といったちょっとした助言を送るだけで、投球フォームも打撃フォームも十分に良くなるんです。試合中はサインを出すよりも、選手に身振り手振りでフォームの修正点を伝えようと手を動かしていたことの方が多かった。
「泥だらけになって暴れよう」と言ったら本当に吉村が…。
私が初めて甲子園で優勝したのは1981年の春、主力選手は吉村禎章です。私は18年間のPL学園監督生活において、一度も選手に「優勝しよう」と言ったことはありません。「次も校歌を歌おう」「泥だらけになって暴れよう」と、そういうことを言うんです。そうしたら、センバツ決勝の印旛(千葉)戦を前に、吉村が本当に顔に土を塗り始めた。それにほかの選手たちが続いて、泥まみれで試合をしたんです。
試合は9回1死まで1-0で負けていましたが、そこでヒットのランナーが出た。ネクストバッターズサークルで3年生の谷英起が代打の準備をしていたのですが、相手の蒲原弘幸監督がタイムをかけて伝令を出した。その間に、2年生の佐藤公宏という選手が、打撃練習で左中間にカンカンと打っていたことを思い出しましてね。3年生に悪いなと思いながらも佐藤に「行くぞ」と言うと、谷は「頼んだぞ」と佐藤を激励して送り出したんです。すると佐藤が左中間に同点打を放って、最後は西川佳明がサヨナラタイムリーで優勝を決めた。整列して校歌を歌う時、テレビに映った選手の顔がみんな泥だらけ。いつも言っていた「校歌」と「泥だらけ」の両方をやってくれたというのが、初優勝の思い出です。
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