高き二人の智将は、'84年夏と'87年夏の2度、決勝の舞台で対決し、1勝1敗と
星をわけあっている。あれから25年、双方の采配が交錯した「伝説の夏」と
忘れじの球児たちの思い出、そして監督術まで、たっぷりと語り合った。
ともに複数の優勝を経験した名監督は、夏の決勝で2度顔を合わせている。対戦成績は1勝1敗。ふたりで向き合うのははじめてという対論は、1984年夏、取手二高とPL学園の決勝の思い出からはじまった。
中村 この年の春、招待試合で対戦させていただいたことがありましたね。
木内 水戸でね。県の連盟が招待したんですよ。そしたらもうコテンパンにやられて。
1931年7月12日、茨城県生まれ。土浦一高卒業後、母校で高校野球指導者の道へ。'56年に取手二高、'84年から常総学院監督に就任。'03年に一度は辞任するものの、'07年同監督に復帰。'11年夏の県大会を最後に勇退。春7回、夏15回甲子園に出場、3度の優勝、2度の準優勝。現在、同校副理事長。
中村 ぼくらも呼んでいただいて、失礼があってはいけないとベストメンバーで行きました。桑田が先発、清原が4番。スコアは13対0だったかな。桑田は9回の1死までノーヒットノーランじゃなかったですかね。
木内 そうそう。清原に本塁打打たれて、ウチは1安打。でも負けて子どもたちが変わりました。オレの打ち方じゃ通用しねえな、短く持ってセンター返しだ、なんて話を自分たちでするようになった。生徒からバッティングを変えたんですよ。だから取手二高の土台はPLが作ってくれたようなもんです。それだけ強いチームでした。
中村 でも、木内先生はあの試合で投手を5人ほど使われていましたよ。
木内 エースが故障していたのもあるけど、どんな投手なら通用するかなと(笑)。どんな球を嫌がるのかというテストができた(笑)。
「2年生になんか負けるなって、頼みの綱は学年だけ」(木内)
中村 決勝での対戦が決まったときは、招待試合でそういう勝ち方をしていたので、かえっていやだなと思いました。それに、取手二高は大会の中でどんどん勢いに乗っている感じがありましたし。
木内 ウチは勝とうなんて気は全然なくて、とにかく試合を盛り上げようと。力の差は歴然なんですから。ただウチは3年生がほとんどのチームだったんです。PLは清原君、桑田君をはじめ2年生が中心。だから2年生になんか負けるなって、頼みの綱は学年だけ。その2年生の桑田君は決勝で3連投になる。だから「絶対3連投目は弱るぞ」と、最初から手ぐすね引いて待ってました(笑)。1回表、1番、2番が凡退して戻ってきたのに、ふたりとも「今日の桑田はキレがないから打てる」という。それが勇気になったのかな。「俺打ってくるわ」って3番、4番がヒットを打って、1回に先制できた。
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