前田三夫はうろたえていた。
「休みをください」
そう選手から休息を求められたことなど、1972年に22歳で帝京の監督になってから一度たりともなかったからだ。
自分で認めるほどのスパルタで、弱小校を甲子園常連校へと鍛え上げていった。「監督でありながら、キャプテンのように選手と接する」を信条とし、厳しさに調和の精神を同居させた指導者は、'89年夏に悲願の全国制覇を成し遂げる。3年後の'92年のセンバツでは2度目の日本一を手にし、名将と呼ばれるようになっていた。
前田が率いるチームは'94年秋の東京大会で準優勝し、翌春に開催されるセンバツの代表権を確実なものとしていた。そんな折に選手たちから出された“休暇願”だった。
セカンドのレギュラーだった田村渉が、「正月の三が日くらいしか休めなかったんで『ちょっとくらいは』という気持ちだったんです」とチームメイトの心情を表したが、前田には選手が気持ちを弛緩させているように映った。
「東京で準優勝ってことは、負けてるんですよ。さらによくないと思ったのは、徒党を組んで『休みたい』と言ってきたことです。『これはもう一度、叩き直さないといけないな』ということで厳しくしました」
前田は狼狽していた自分を奮い立たせ、休みを願い出た2年生に怒鳴り散らす。
「ふざけるんじゃないよ!」
「厳しい」が「当たり前」になってしまっていた。
シーズンオフになると、2年生は監督から干された。グラウンドに入ることを認められず、ネット越しに制服姿で立ったまま練習を見学させられる。その後も球拾いなど1年生のサポートに回され、ようやく監督からの許しを得られたのは年明けだった。
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