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【帝京高校】「勝つことでしか…」"甲子園のヒール”前田三夫監督の本気とわずか4人の3年生の物語《「勝利至上主義」批判を超えて》

2024/08/11
1995年夏の甲子園を制した帝京高校・前田監督
'95年、3度目の甲子園制覇を目指す東京の雄は揺れていた。指揮官の熱血指導に耐えきれず、3年生が次々とチームを離脱。予選が始まれば、試合ぶりが「勝利至上主義」と揶揄された。それでも彼らはなぜ逆風をはね除け、栄冠を手にできたのか。(原題:[わずか4人の3年生と]前田三夫(帝京)「たとえヒールと呼ばれても」)

 前田三夫はうろたえていた。

「休みをください」

 そう選手から休息を求められたことなど、1972年に22歳で帝京の監督になってから一度たりともなかったからだ。

 自分で認めるほどのスパルタで、弱小校を甲子園常連校へと鍛え上げていった。「監督でありながら、キャプテンのように選手と接する」を信条とし、厳しさに調和の精神を同居させた指導者は、'89年夏に悲願の全国制覇を成し遂げる。3年後の'92年のセンバツでは2度目の日本一を手にし、名将と呼ばれるようになっていた。

 前田が率いるチームは'94年秋の東京大会で準優勝し、翌春に開催されるセンバツの代表権を確実なものとしていた。そんな折に選手たちから出された“休暇願”だった。

 セカンドのレギュラーだった田村渉が、「正月の三が日くらいしか休めなかったんで『ちょっとくらいは』という気持ちだったんです」とチームメイトの心情を表したが、前田には選手が気持ちを弛緩させているように映った。

「東京で準優勝ってことは、負けてるんですよ。さらによくないと思ったのは、徒党を組んで『休みたい』と言ってきたことです。『これはもう一度、叩き直さないといけないな』ということで厳しくしました」

JIJI PRESS
JIJI PRESS

 前田は狼狽していた自分を奮い立たせ、休みを願い出た2年生に怒鳴り散らす。

「ふざけるんじゃないよ!」

「厳しい」が「当たり前」になってしまっていた。

 シーズンオフになると、2年生は監督から干された。グラウンドに入ることを認められず、ネット越しに制服姿で立ったまま練習を見学させられる。その後も球拾いなど1年生のサポートに回され、ようやく監督からの許しを得られたのは年明けだった。

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photograph by Asahi Shimbun

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