博多の人・王貞治BACK NUMBER
「ダイエーは経営が苦しくなっていたのに…」王貞治ホークス“雌伏の4年間”にまかれていた種とは「僕を、見捨てなかったということだよね」
text by

喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2026/07/10 11:10
生卵事件の屈辱を受けるなど、雌伏のときを過ごした4年間。しかし徐々に王の勝利への意識が新たな選手たちに浸透していった
1996年の1位指名はアトランタ五輪日本代表の内野手・井口資仁(青山学院大=元ロッテ監督)で、2位も同じくアトランタ五輪日本代表、2004年には平成唯一の「三冠王」に輝いた松中信彦(新日鉄君津=現中日1軍打撃統括コーチ)、3位が攻走守の三拍子そろった外野手の柴原洋(九州共立大=現野球評論家)。
1997年の1位は、ダイエーが初の日本一に輝いた1999年に10勝を挙げた右腕・永井智浩(JR東海=現ソフトバンク編成育成本部長)で、2位に1999年に60試合登板、リリーフで14連勝をマークした左腕・篠原貴行(三菱重工長崎=現DeNAアマスカウト)と、低迷期に獲得した逸材たちが、1999年の初優勝&日本一の立役者へと成長していくのだ。
根本の青写真、中内の支援
種を蒔き、花が咲くまで、丹念に育てていく。その“時間と資金”を惜しまなかった根本の方針、そしてダイエー本社の姿勢に、王は今も感謝を惜しまないという。
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「ダイエーは、あの地震(1995年の阪神・淡路大震災)から、会社の経営が本当にしんどくなってきていたんですよ。だけど秋山、工藤が来てね。外国人選手とか、ドラフト1位、2位とかの選手に対する投資は、ケチらなかった。だから僕は、中内㓛さんには感謝しています。本体が大変だったはずなのに、我々にそれなりの補強はしてくれましたよ。だから、中内さんには足を向けて寝られない、と思っていますよ」
阪神大震災は、ダイエーの本社機能を集中させていた神戸・三宮に壊滅的な被害をもたらした。この未曽有の大災害も一因となり、ダイエーの経営は大きく傾き、後に球界再編騒動として語られる2004年、不良債権処理を促進するための「産業再生機構」による支援、つまりは、国の管理下での経営再建を図ることになった。それは事実上の倒産を意味し、球団がソフトバンクに譲渡されたのは、その2004年暮れのことだった。
中内は、その“右肩下がり”の経営状況でも、王への後方支援を惜しまなかったのだ。

