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「ヤンチャ坊主とは聞いていた」Jリーグ鹿島“伝説のスカウト”が後継者・興梠慎三を見つけた日…半端ない高校生・大迫勇也につながる「柳沢敦」の系譜
posted2026/04/10 11:02
2005年に鹿島アントラーズに加入した興梠慎三(写真)。移籍した浦和レッズでもタイトル獲得に貢献した
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安藤隆人Takahito Ando
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YUTAKA/AFLO SPORT
「新人選手獲得ゼロ」という不本意に終わった1996年の翌年、スカウト3年目を迎えた椎本邦一は当時鹿島アントラーズの強化部を取りまとめていた鈴木満に“最高の恩返し”を果たす。
大船渡高の小笠原満男、帝京高の中田浩二、東福岡高の本山雅志ら高校サッカー界を代表する選手たちの獲得を次々と成功させた。1998年度は椎本が立ち上げに参画したユースからGK曽ケ端準の昇格を含めた6名を新人選手として迎え、彼らはのちのクラブの土台となる選手に育っていくのだった。
クラブ隆盛の基盤ともなる出来事ではスカウトとしての自信を得た一方で、将来を担う若者と向き合う日々は、その責任の重さをひしひしと感じる時間だったという。
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「未来のある若者だからこそ、軽はずみな決断が選手の人生を狂わせてしまう。俺はね、選手を獲得したから終わりではなく、そこからさらに育て、“未来”まで向き合わないといけないと思っている。いくら良い選手でもウチに入った後が大事。ダメなものはダメときちんと怒らないといけないし、なあなあでやってしまったら選手は潰れる。スカウトとして、アントラーズの一員として、何より人として、“お父さん”として接しないといけないと思っているんだよ。特に高卒の選手にはいつもこう言っていた。『3年目で出てこい。その間に身体と心を作ってくれ』。その3年間でアントラーズのスピリット、ジーコのスピリットを落とし込む。そうすることでアントラーズらしい精神を持った選手が育つんだよ」
ヤンチャ坊主だった興梠慎三
「育てる」という点で印象深い選手がいる。2005年に宮崎・鵬翔高から加入した興梠慎三だ。
もともと、椎本が同校を訪れたのは興梠の1学年上のテクニシャン、増田誓志の視察が目的だった。だが、すぐに眼力が興梠のプレーに反応する。強豪・国見高との試合で何度もスピードで相手を置き去りにし、多少体勢が崩れても抜群のボディーコントロールを駆使してボールを収め、さらに加速して相手を切り裂いていく。まるで野生児のような疾走感に魅了された。
「ずば抜けて速い選手がいた。ドリブルしてスピードに乗っていたのに、キュッと直角に曲がるんだよ。急停止、急加速、方向転換ができるんだよね。あれは本当に驚いた。まずは誓志をしっかりと獲得してから、その次に慎三に行くと心に決めたんだ」
しかし、当時の興梠には素行に問題があるともされていた。ヤンチャ坊主という評判が原因で敬遠するJクラブも少なくなかった。


