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加藤大治郎の鈴鹿、ストーナーの早すぎる引退、ロッシの“キック”…グランプリ取材37年の遠藤記者が選ぶMotoGP「5大事件簿」
posted2026/01/29 17:00
2003年の日本GP鈴鹿サーキットでピットアウトする加藤大治郎
text by

遠藤智Satoshi Endo
photograph by
Satoshi Endo
グランプリを取材するようになって、今年で37年目のシーズンを迎える。その間、取材した大会は592戦を数え、多くのチャンピオン誕生の瞬間に立ち合ってきた。選手を問わず感動シーンは忘れられないものだが、悲しみや怒り、そして深い喪失感に包まれる出来事も多かった。そのなかで今回は、MotoGPクラスが誕生した2002年以降、僕にとって「忘れられない5大事件」を振り返ってみたい。
①2003年日本GP、鈴鹿サーキット、加藤大治郎の悲劇
2003年、鈴鹿サーキットで開催された日本GPで、大ちゃんこと加藤大治郎がコース最終セクションのシケインで転倒。ヘリコプターで三重県立総合医療センターに運ばれたが、脳幹梗塞のため帰らぬ人になった。26歳だった。
病院に運ばれてから2週間、僕は毎日救命救急センターの外にいて大ちゃんの回復を願った。毎日ICUで戦う大ちゃんの容体を契約していたスポーツ紙に掲載した。たった数行の記事だったが、大ちゃんはがんばっているんだということを伝えるのが僕にできる唯一のことだった。それだけに大ちゃんが亡くなったときの悲しみと喪失感は、言葉にできないものだった。
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大ちゃんは2001年にWGP250ccクラスでシーズン最多記録の11勝を挙げてチャンピオンを獲得。翌年MotoGPクラスに参戦し、日本人初の最高峰クラスチャンピオンの期待が寄せられた。日本だけでなく世界が注目するライダーに成長したが、サーキットではいつも背伸びをしないありのままの大ちゃんがいた。それでいて、彼の記録は天才だけが残せるものだったし、事故がなければ、まだ何回も世界チャンピオンになれたはずだった。
この転倒事故について、当時ホンダは第三者機関による「加藤大治郎選手事故調査委員会」を設置した。大ちゃんのライディングデータからの分析、RC211Vやコースの安全性、事故直後から病院に搬送されるまでの応急処置などの検証結果を報告したが、結局、ライダーのコメントがなければ完全なものにはならないということを痛感させられる報告書でもあった。
事故の引き金になったのは、この年、鈴鹿サーキットの最終セクションに出来たWシケインだった。最終コーナーのスピードを落とし安全性を高めるためのものだったが、162cmと小柄だった大ちゃんにとって、Wシケインでの4回の切り返しは得意とする鈴鹿サーキットでのアドバンテージを削り取られることになっていた。
大ちゃんがWシケインに到達するまでは誰よりも速かったが、このWシケインだけで0.5秒タイムをロスすることになった。それがなければぶっちりでポールポジションを獲得し、優勝できたはずだと思う。
「あそこですごく遅れる。あのシケインがなければ」
言い訳のないライダーだったが、日本GPで勝ちたかったのだろう大ちゃんの言葉が、いまも脳裏にやきついている。


