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広岡達朗にマニエルが激怒「ベンチで大暴れ」そのとき広岡が言った“意外な言葉”「自尊心を傷つけてしまったことは謝る。だが…」あえて貫いた“厳しさ”
posted2026/01/28 17:20
ヤクルト、近鉄で活躍し、「赤鬼」と恐れられたチャーリー・マニエル。のちにフィリーズの監督としてワールドシリーズを制した
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
JIJI PRESS
助っ人マニエルが広岡達朗に激怒した日
就任2年目となる1977(昭和52)年は、広岡にとってさまざまな収穫のあったシーズンとなった。そのほとんどは「ぬるま湯体質を一掃する」という当初の狙いを現実にする布石となるものだった。
第一章で詳述した「缶ビール事件」が起きたのもこの年のことだ。
チームリーダーとして白羽の矢を立てた若松勉に、さらなる自覚を促すことによってチームに一本の柱ができた。同時に「レギュラー選手といえども安穏とできないのだ」という緊張感がスワローズナインに広がることとなった。そしてこの年、若松は張本勲との激しい打率争いを繰り広げ、わずかの差で二度目の首位打者に輝いた。
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食事管理によって、故障してもすぐに回復する肉体を手に入れた。レフトからセンターへのコンバートによって、グラウンド全体を見渡すことのできる広い視野を獲得した。いずれも、広岡の指導によって新たに手にしたものであり、それが自身の成績向上へと繋がっているという実感があった。少しずつ、広岡への思いが反発から心酔へと変わっていく。
また、この年にはチャーリー・マニエルとロジャー・レポーズの両外国人に対する毅然とした態度が際立つことになった。話はその前年の「マニエル激怒事件」にさかのぼる。
後楽園球場で行われた読売ジャイアンツ戦のことだ。広岡が振り返る。
「僅差でヤクルトがリードしていた場面。ジャイアンツの追い上げを受け、“マニエルを代えよう”と思っていたけど、次の回で彼に打席が回る。だから、不安を抱えつつも、マニエルを代えずにいた。するとその回にライトの前に打球がフラフラと上がった。普通の外野手であれば難なく捕れるフライだよ。でも、マニエルは緩慢な動きで、それをポテンヒットとしてしまった。初めから捕るつもりがないんだもの、アウトにできるはずがない。あれではピッチャーがかわいそうだ。だから私は、有無を言わせずアンパイアに選手交代を告げたんだよ……」

