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原晋監督の金言「走りたくても走れない選手がいる」青学大OB・岡崎隼也に聞く“33年ぶり”箱根駅伝出場にかけた青春「人生でこんなに喜べる瞬間が…」
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小堀隆司Takashi Kohori
photograph byAFLO SPORT
posted2026/01/11 11:27
青山学院大学が33年ぶりに出場した2009年の箱根駅伝。努力の末に辿り着いた晴れ舞台は、当時のメンバーに何を残したのか?
寮母の美穂さんが言った「隼君を走らせたら?」
長い歴史の中でも、もっとも遅い返り咲きとなる33年振りの箱根駅伝出場。そこからの青学大の躍進を考えると、ますますこの年のチームの踏ん張りが印象深い。
だが、喜びにひたったのもつかの間、選手は本戦に向けて気持ちを切り替えなければならなかった。岡崎さんが本戦で走りたかったのは、距離が短く、下り基調の6区。6区を想定した部内競走のレースでトップを取ったこともあった。
しかし、岡崎さんの話を聞いていると、やはり記憶の濃淡で言えばこの予選会通過がひとつのピークだったようだ。
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予選会後の練習で再び腰を痛めたこともあり、岡崎さんは当初、箱根駅伝を走れる状態ではなかったという。
「市岡(敬介・3年)という後輩がいて、彼は翌年7区を走るんですけど、この年の6区は彼が有力候補だったと思うんです。正直、僕も走れるとは思っていなくて、腰を痛めた時点で終わりと考えてました」
だが、思わぬところから援護の声が届いた。
「監督の奥さん(原美穂さん)ですね。選手選考で監督がすごく悩んでいるときに、『隼君を走らせたら良いんじゃないの』って言ってくれたらしくて。それがきっかけだったと、箱根が終わったあとに聞きました。寮母の奥さんは監督とはまた違う視点で選手を見ていて、それぞれの貢献度とかモチベーションとか、よく知っている。監督の前ではやっぱり、選手ってある程度かしこまったりするじゃないですか。本音を言えるのが奥さんでした」
「僕だけが死にそうな顔で襷を渡してしまった…」
12月末の区間エントリー、6区には岡崎さんの名前が書き込まれていた。しかし、腰の状態は依然として良くないままで、千葉の富津で行った調整合宿では練習にも参加できず、ひとりだけ歩いてリハビリをしていたという。
自身にようやくゴーサインを出せたのは、年が明けた元旦だった。
「最後の調整で1000mを走ったんですけど、そこである程度の設定タイムで走れて、監督に電話を入れました。スタートラインには立てますって言ったと思いますけど、あとはもう知らんって感じでしたね(笑)」
先述したように、本戦は予選会を通過したご褒美のようなものだった。彼らの最大のミッションは、33年前の52回大会で、青学大のアンカー杉崎孝さんが残り150mで意識を失い、途中棄権した襷を大手町までつなぎきること。それができれば十分だったのだ。

