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「大迫、終わったな」全国高校駅伝を初制覇の翌年にエース大迫傑が不調、そして…佐久長聖高名将の「不安と恐怖ではじまった監督生活」 

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高見澤勝

高見澤勝Masaru Takamizawa

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photograph byJIJI PRESS

posted2025/12/25 17:02

「大迫、終わったな」全国高校駅伝を初制覇の翌年にエース大迫傑が不調、そして…佐久長聖高名将の「不安と恐怖ではじまった監督生活」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

2008年、佐久長聖高の全国高校駅伝初優勝ではアンカーを務めた大迫傑。しかし2009年には怪我の影響で不調が続いていた

両角先生の驚異的な調整力

 大迫はインターハイ後もなかなか調子が上がりませんでした。全国高校駅伝が近づいても本来の走りではなく、チームも沈み気味だったんです。しかし、京都に入る前に行う滋賀の事前合宿で様変わりしました。私は佐久で残りの選手を指導して、大会2日前に京都に入りました。そこで大迫の走りを観たときに、「エッ」と驚くくらい、凄く良い動きをしていたんです。

 本番では1区の途中から逃げて29分06秒の好タイムで区間賞を獲得しました。私自身、インターハイの苦い思い出があったので、1区が終わった時点でちょっとジーンときちゃいましたね。アンカーを務めたのが1年生の駿で区間2位と好走して、チームは2時間5分00秒で4位に入りました。滋賀の事前合宿でチームは一気に調子を上げた印象です。

 とにかく両角先生は全国高校駅伝の“調整”が抜群にうまいんです。翌年(10年)は非常に故障が多く、選手の実力も不足していました。コーチの私が、「正直、入賞は難しいな」と思っていたんですけど、最終的には7位入賞を果たしました。「両角先生は凄いな」と改めて感心させられましたし、近くにいながら、チームが調子を上げられる理由がわかりませんでした。

「俺が出ていくか、高見澤が出ていくのか」

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 コーチ3年目(10年)に私は“恐怖”を感じました。駿が2年生のときですね。両角先生が東海大学の駅伝監督になることが決まったんです。その話を最初に聞いたのが8月の合同合宿(※例年10校ほどが集まる恒例の夏合宿)でした。両角先生がいつになく神妙な態度で、「高見澤、ちょっといいか」と呼んできたんです。

 その日は夜に他校の監督さんたちと懇親会をやる予定だったんですけど、その前に両角先生から「東海大学から駅伝監督の話が来ている」というお話を聞かされました。「まだ決定ではないにしろ、その可能性があると思っておいてくれ」と言われて、茫然としました。その後の懇親会のお酒が不味くて……。

 実はコーチに就任した1年目に両角先生からは、「俺が出ていくか、高見澤が出ていくのか、どちらかだ」と言われていたんです。私のなかでは両角先生は佐久長聖にずっといるものだと思っていました。私が何年か勉強させていただいて、他校に行って、佐久長聖とトップを競い合いたいなと思っていたので、正直、かなりショックでしたね。

【次ページ】 不安と恐怖のなかで始まった監督生活

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