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福本豊の証言「相手は初優勝でしょ? 負ける気せんかった」広岡達朗のヤクルトはなぜ絶対王者・阪急に勝てたのか? 弱気だった若松勉「0勝4敗もある」
posted2025/12/11 12:00
1978年日本シリーズ開幕前日の10月13日、川上哲治と言葉をかわすヤクルト監督の広岡達朗
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Sankei Shimbun
福本豊の回想「まったく負ける気がせんかった」
「勝てる思ってましたよ。三連覇していたし、四連覇もできる、する気でしたから」
球史に残るリード・オフ・マンの福本豊は言う。
1978(昭和53)年日本シリーズは、前年まで広島東洋カープ、読売ジャイアンツを相手に3年連続日本一となり、この年もパ・リーグ4連覇を達成していた阪急ブレーブスと、球団創設29年目にして初めてセ・リーグを制したヤクルトスワローズが激突することになった。
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ブレーブス・上田利治監督は41歳、対するスワローズ・広岡達朗監督は46歳。ともに40代監督による対戦である。福本は続ける。
「昭和40年代、川上哲治監督時代のジャイアンツにはまったく手も足も出なかった。ONの二人は元気だし、向こうは場慣れしていたけど、こちらは雰囲気に呑まれてオロオロしているうちに、気がつけば日本シリーズが終わっていた。普段の野球がまったくできず、自分たちの力を発揮することもできず、完全に見下ろされていましたよ……」
しかし、昭和50年代に突入すると、今度はブレーブスが野球界の中心となる。
「……昭和50年、カープが初めて優勝した。この頃には僕らは何度もシリーズに出ています。逆にカープがかつての自分たちのように場慣れしていなくて、僕らはかつての川上巨人のようにどっしりと構えている。完全に立場が逆転しました」
1975年、4勝0敗2分でカープを一蹴した。続く1976、77年は長嶋茂雄率いるジャイアンツとの激闘の末に3連覇を実現。福本は、1975年にはシリーズ技能賞、1976年はシリーズMVP、さらに打撃賞、そして1977年はシリーズ優秀選手賞に輝き、ブレーブス黄金時代の立て役者の一人となっていた。

