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「日本で初めて雪を見たよ」“今はポッチャリ”元ブラジル人名FW43歳「活躍できなければクビ」から新潟移籍→“J1で111ゴール”を決めるまで
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沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byJ.LEAGUE
posted2025/10/26 11:01
アルビレックス新潟時代、20代前半だったころのエジミウソン。引退してブラジルに帰った今はどうなっている?
「いや、全く。ブラジルでは試合が見られなかったからね。でも、2002年に大分トリニータでプレーしていて翌年、新潟に加わったMFファビーニョから話を聞いた。『Jリーグは組織がしっかりしており、クラブの施設も優れている』、『新潟は地方のクラブだけど、大勢の熱心なファンがいて、スタジアムはいつも満員になる』、『日本はとても安全で、家族共々、安心して生活できる』などと聞いて、日本行きを決意した」
――この年、新潟はブラジルで約1カ月のプレシーズン合宿を行なった。そのため、まずはブラジルでの合宿に合流した後、日本へ向かった。新潟の町の印象は?
「東京はかなり寒く、新潟はさらに寒かった。人生で初めて雪を見た。大きな地震(新潟県中越地震)にも驚いた。でも、新潟の町は大きすぎず、小さすぎずのグッドサイズ。クラブ関係者やチームメイトが助けてくれたので、生活に順応するのに大きな障害はなかった」
日本式はみっちり練習するよね
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――2004年2月、新潟はブラジルで約1カ月間のプレシーズン・キャンプを敢行しました。場所は南部コリチーバにある強豪アトレチコ・パラナエンセのトレーニングセンター。実は、私はこのキャンプを現地で取材し、あなたにも短時間ですがインタビューしています。
「ええっ、そうだった? 全く覚えていないよ(笑)。入団したばかりで、毎日、一生懸命だったからね」
――当時、21歳。初めて日本のクラブでプレーすることになり、緊張している感じがしました。
「うん、すごく緊張していたと思う。キャンプの場所はブラジル国内だったとはいえ、日本のクラブのキャンプで、物事すべてが日本式に運ぶからね。ブラジルのクラブの場合は、せいぜい2週間くらい練習して、すぐに実戦を繰り返しながら仕上げる。一方、日本ではみっちり練習するんだよね」
ブラジル人だけでなくGKノザワも親切だったよ
――新潟のスタッフや選手は、あなたをどう迎えてくれましたか?
「反町監督以下のコーチ陣、選手たちはとても暖かく迎えてくれた。優秀な通訳がいたから言葉の障害は感じなかったし、フェルナンジーニョ、さらにはブラジル人のフィジカルコーチとGKコーチがいたから、お互いに助け合って練習を続けた。日本人選手の中では、とりわけGK野澤洋輔が親切に声をかけてくれて嬉しかった」
こうして、21歳の若者は未知の国・日本へ渡ったのである。〈つづく〉

