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「日本で初めて雪を見たよ」“今はポッチャリ”元ブラジル人名FW43歳「活躍できなければクビ」から新潟移籍→“J1で111ゴール”を決めるまで 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byJ.LEAGUE

posted2025/10/26 11:01

「日本で初めて雪を見たよ」“今はポッチャリ”元ブラジル人名FW43歳「活躍できなければクビ」から新潟移籍→“J1で111ゴール”を決めるまで<Number Web> photograph by J.LEAGUE

アルビレックス新潟時代、20代前半だったころのエジミウソン。引退してブラジルに帰った今はどうなっている?

「故郷が恋しかったし、経済的にも苦しかった。アマチュア時代は、クラブが月に50レアル(現在の価値で3000円程度)補助してくれた。その大半を実家へ送り、残ったお金で衣類など最低限必要な物を買った。家へお金を送ったのは、頼まれたからじゃない。貧しいのがわかっていたから。両親がとても喜んでくれたので、その後もクラブからの援助の大部分を仕送りしていた」

――パルメイラスのアカデミーでの練習はどうでしたか?

「ブラジル全土から優秀な若者が集まり、全員がプロを目指していた。実際にはごく一握りの者しかプロ契約してもらえないから、皆、必死だった。僕も故郷を出てきているわけだから、後がない。毎日の練習が試合と同じで、試合は各々の人生を懸けた戦いだった」

ジュニーニョとチームメートだったんだ

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――その頑張りが実って、晴れてプロ契約にこぎつけたわけですね。

「2001年1月、18歳でプロ契約を結んだ。同期の20数人のうち、パルメイラスでプロになれたのは僕を含めて3人だけ。このときは、本当に嬉しかった。でもプロになっても、活躍できなければすぐクビになる。プロ契約が出発点に過ぎないことは、よくわかっていた」

――トップチームでデビューしたのは?

「この年2月8日、リオ・サンパウロ・トーナメントのボタフォゴ戦。場所は憧れのマラカナン・スタジアムで、後半途中から出場した。すごく緊張していて、何をしたか全く覚えていない(笑)」

――その後は?

「当時のレギュラーとはまだ力の差があり、この年も翌年もずっと控え。2003年から川崎フロンターレで活躍したジュニーニョがチームメイトだったんだ。僕が出場機会を得られるようになったのは、2003年から。当時、20歳だった。3月、サンパウロ州選手権のコリンチャンス戦に途中出場しその後、コパ・ド・ブラジル、ブラジル2部の試合に出場するようになった」

――この年、ブラジル2部で27試合に出場して11得点。

「懸命にプレーしているうちに、少しずつ結果が伴ってきた。シーズンの中盤以降、レギュラーになった。9月から10月にかけては絶好調で、ハットトリックを含む5試合連続得点を記録した」

新潟に行って初めて雪を見たよ

――2004年初めもサンパウロ州選手権に出場していたが、1月末、アルビレックス新潟への期限付き移籍を果たした。新潟は、前年にJ2で優勝して、J1へ昇格したばかりだった。新潟へ加わった経緯は?

「この年の初め、反町康治監督が選手獲得のためブラジルを訪れていた。パルメイラスの試合を見て僕のことを気に入り、クラブへ期限付き移籍を申し入れたと聞いた。当時、パルメイラスは主力スポンサーが撤退し、財政が悪化していた。2002年に2部へ陥落し、1年で1部へ復帰したけど大型補強は望めず、待遇も良くなかった。僕は長女が生まれたばかりで、経済的な安定が欲しかった」

――当時、Jリーグに関する情報は持っていたのですか?

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