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獅子の遺伝子BACK NUMBER
「ビザの枠がない」契約目前で白紙に…西武の選手会長が自由契約→メジャー挑戦→浪人…アイドル愛娘の始球式で話題の指揮官「波乱万丈人生」
text by

佐藤春佳Haruka Sato
photograph byJIJI PRESS
posted2025/09/29 11:02
2002年の小関竜也。松井稼頭央との1、2番コンビはリーグ優勝の原動力となった
異例の入団4年目「新人王」
プロ4年目の1998年、春季キャンプを経てオープン戦で試行錯誤する中でふと、コツを掴んだという。開幕戦に「9番ライト」で先発出場すると、そこから一気にレギュラーを奪った。当時のライオンズは、黄金時代からの過渡期を経て、一気に世代交代が進んでいた。松井稼頭央、高木大成、高木浩之ら若手野手が鮮やかにその才能を開花させた。
「自分と近い世代の選手が上で活躍するのを見て、一軍は決して別の世界じゃないんだ、自分にもチャンスがあると感じられたのは大きかったです。自分も一気にいかないと、という気概で駆け抜けた1年でした」
どんどん打順が上がり、夏場以降は松井とともに1、2番コンビを結成。ライオンズが連覇を果たしたこの年、104試合に出場し打率.283と結果を残した若獅子は新人王に選ばれた。入団4年目での新人王は、パ・リーグでは初という快挙だった。
選手会長がいきなり自由契約に…
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その後、外野のレギュラーを不動のものとし、2000年9月まで658回連続守備機会無失の外野手パ・リーグ記録(当時)を作った。2002年にはキャリアハイの打率.314をマークし、ゴールデン・グラブ賞を獲得。順風満帆に疾走していた野球人生に波乱が訪れたのは、選手会長に就任した2005年のことだ。
前年から若手野手の台頭で少しずつ出番を減らし、この年も47試合、打率.198と低迷した。シーズン終了後に球団側から減額制限を超える大幅減俸を提示されたが、条件が折り合わず自ら自由契約を申し出た。
「チームとしては若手と切り替わるタイミングだったと思います。自分も上手くいかない状態が続いて、なかなか一軍に上がれなかった。球団と話し合って、ここは自由契約にしてください、と。少し前に話題になった『ノンテンダー』ですよね」

