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「月収30万円、バイト生活→いきなり年俸3700万円に」“2年で消えた”巨人助っ人外国人カムストックとは何者だった? 阪神コーチが恐れた「あのスクリューはマズい」
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細田昌志Masashi Hosoda
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2025/10/02 17:00
1985、86年と2年間だけ巨人に在籍した左投手キース・カムストック
チームにいち早く溶け込むこともそうだが「自分はスミスやクロマティのような、現役メジャーリーガー出身ではない」「本当ならマイナーに逆戻りのところを拾ってもらえた」という意識も働いたに違いない。
堀内恒夫投手コーチ(当時)の指示にも従順に従い、「カミー」とニックネームで呼ばれると「イエッサー」とすぐに駆けつけた。それでも首脳陣の評価は低く「まずは中継ぎで様子を」という見立てだった。『週刊新潮』(1985年2月7日号)では「某評論家の見立て」と称して、次のコメントを載せている。
「カムストックの売物はタテの変化球だが、技巧派を重宝する今の大リーグで使い物にならないということは、日本でも期待できないということ。5勝できれば上出来」(同)
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また、この時期『ズームイン!!朝!』(日本テレビ系)のスポーツコーナー「プロ野球いれコミ情報」のコメンテーターだった平田翼は、当時の状況をコラムにこう綴っている。
《グアムでのカムストックの評価は最低だった。5月には二軍落ち、8月には日本をサヨナラするのではないかと見た人もいたくらい》(『週刊ベースボール』1985年4月8日号)
阪神コーチ「あのスクリューはまずい…」
しかし、その評価も宮崎入りすると一変する。2月21日にシート打撃に登板すると、打者18人に対し5安打4三振の快投を見せ、原辰徳、中畑清といった主軸打線をそれぞれ三振に切って取った。決め球となったのは落差30cmのスクリューボールである。習得したのは2Aのウエストヘブンに在籍していた81年、「スクリューボールを教えてやる」と、何の気なしにチームメイトが言ってきたことに起因するという。
「阪神の福間(納)さんのスクリューとはまた違う。あまり体験したことのない種類」と原が言えば、中畑も「ひょっとしてワンバウンドじゃない? でも、俺の眼にはストライクに見えたんだ」と脱帽した。これ以降、紅白戦、オープン戦においてもカムストックの快投は続いた。3月9日の日ハム戦では打者10人に三振3、無失点の好投。18日には前年度のパ・リーグ優勝チームの阪急ブレーブス(現・オリックスバッファローズ)を相手に先発登板、6回を打者26人、球数96、三振3、安打4、失点2、自責点0の結果を残した。圧巻は3回裏、1死満塁の場面で前年度パ・リーグ三冠王のブーマーを迎えたときである。109キロの超スローボールを放って、ボテボテのピッチャーゴロ、1(投)―2(捕)―3(一)のダブルプレーに切って取った。このとき放ったスローボールもスクリューだった。
当のブーマーは「凄い落差だ。あいつがセ・リーグで助かった」とこぼし、西宮球場まで偵察に来た阪神の米田哲也投手コーチ(当時)も「ストレートの威力はないが、あのスクリューボールを有効に使われてはまずい」と危機感をあらわにした。『日刊スポーツ』(1985年3月19日付)は《カムストックが先発ローテーション入りを決めた瞬間でもあった》と伝えている。
予想以上の出来に、カムストック本人も戸惑ったに違いないが、江川、西本、加藤、槙原に次ぐ第5の先発投手として、晴れてカムストックは、1985年の開幕を迎えた。

