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「月収30万円、バイト生活→いきなり年俸3700万円に」“2年で消えた”巨人助っ人外国人カムストックとは何者だった? 阪神コーチが恐れた「あのスクリューはマズい」
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細田昌志Masashi Hosoda
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2025/10/02 17:00
1985、86年と2年間だけ巨人に在籍した左投手キース・カムストック
余談になるが、このとき南海のフロントがミヤサンドに要求したのが、メジャーリーグ昇格をはたせなかった江夏豊だった(※詳しくは前稿の「1985年の江夏豊」を参照のこと)。「マイナーリーグに逆戻り」と思われたカムストックだったが、意外な球団が獲得に乗り出した。巨人である。
“月30万円”アルバイト生活だった
1984年の球団創設50周年という記念イヤーに優勝を逃した巨人にとって、即戦力投手の獲得は必須で、巨人のフロントは、レジ―・スミスの後釜の助っ人外国人を即戦力投手に定めた。そこで浮上したのがカムストックだった。しかし、フロントはカムストックの獲得には躊躇する。メジャー経験は僅か4試合、お世辞にもいい結果とは言えない。であるのに、獲得に踏み切ったのは、就任2年目の王貞治監督(当時)の強い働きかけがあったからである。
「左の先発投手」を第一の補強ポイントにあげていた王監督は「江川、西本で35勝、加藤初、槙原寛己、カムストックで30勝、他の投手陣で10勝を合わせて計75勝で優勝」という皮算用を描いており、それもあって獲得が決まった。つまり、この4年後に入団するビル・ガリクソンのように、最初から15~20勝を期待されたわけではなかったのだ。
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カムストックにとっても、巨人入団は願ってもない話だった。年俸4万ドル(当時の日本円にして900万円=推定)を上限としたマイナー生活の収入では生活もままならず、アルバイトで糊口を凌いでいたのが、一気に年俸3700万円(推定)に跳ね上がり、住居は完成したばかりの広尾タワーが用意された。当然、交通費も支給される。マイナー時代はこうはいかない。まったく夢のような待遇だった。
「知っての通りマイナーリーグのサラリーは低いですよ。(中略)最後の年は月に1200ドル(約30万円)もらっていたけれど、これはシーズン中だけの話。オフシーズンは毎年アルバイトですよ。(中略)庭師をやったり、自然公園の管理や福祉関係の指導員、中学校のバスケットボールのコーチ……いろいろやりました。そうじゃないと、生活できないもの」(カムストックのコメント/『週刊ベースボール』1985年5月20日号)
1985年1月26日、大手町の球団本社で正力亨オーナー(当時)を対面、初めてユニフォームに袖を通した。背番号は17。
「オーナーからは“日本一の人気球団だから自己管理も忘れずに”と言われた。僕もそのつもり」(カムストックのコメント/『日刊スポーツ』1985年1月26日付)
「5月には二軍落ち、8月にサヨナラ」の低評価
1982年から1999年まで、巨人の春季キャンプは2月前半はグアム、後半が宮崎と決まっていた。外国人選手の大抵が宮崎から合流するのが定番で、それもどことなく渋々といった観があった。
しかし、1985年の新外国人であるキース・カムストックは宮崎でもグアムでもなく、1月26日からの多摩川特別キャンプからチームに合流した。

