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「月収30万円、バイト生活→いきなり年俸3700万円に」“2年で消えた”巨人助っ人外国人カムストックとは何者だった? 阪神コーチが恐れた「あのスクリューはマズい」
posted2025/10/02 17:00
1985、86年と2年間だけ巨人に在籍した左投手キース・カムストック
text by

細田昌志Masashi Hosoda
photograph by
BUNGEISHUNJU
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“2年で消えた”助っ人ピッチャー
1985年から40年ということで、この年のプロ野球について振り返ると、空前の「トラフィーバー」に行き着く。吉田義男監督(当時)率いる阪神タイガースはシーズン序盤から快調に飛ばし、中埜肇球団社長(当時)が8月12日の日航ジャンボ墜落事故に遭う悲劇もありながら、23年ぶりのリーグ制覇、西武ライオンズを破って日本シリーズを制した。「トラフィーバー」は社会現象となった。
一方、この年の巨人はというと、序盤から投打が嚙み合わず、勝率5割前後の低空飛行、8月26日に単独首位に躍り出るも、エースである江川卓、西本聖の不調もあって再び連敗が続き、阪神、広島に次いで3位に終わった。
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そんな1985年の巨人の助っ人外国人選手は、外野手のウォーレン・クロマティ(84年入団)と、「カミー」の愛称で親しまれた左投手のキース・カムストックである。スクリューボールを武器に三振の山を築くなど、貴重な左の先発として存在感を示したカムストックだったが、翌86年のシーズンオフに解雇。米国球界に復帰後は、意外にもメジャーを舞台に程々の活躍を見せ、1991年まで現役を続けている。2年間の日本球界の経験が、彼の選手生命を延ばし、さして縁のなかったメジャーリーグへとステップアップさせた。そう言っても間違いはないのかもしれない。
彼にとって日本球界とはどんな場所だったのか、何が起きたのか、そもそも、彼はどんな選手だったのか。今ではほとんど語られることのないカムストックについて、全3回にわたって可能な限り書き留めておきたい。
南海がNG「143キロでは話にならない」
キース・カムストックは1955年12月23日、サンフランシスコに生まれた。父親の熱心な指導もあって少年時代から野球に没頭。76年にカリフォルニア・エンゼルスに5巡目指名で入団する。しかし、メジャーリーグとはとんと縁がなく、8年間もマイナー生活に甘んじた。4球団目のミネソタ・ツインズでようやくメジャーに昇格するも、4試合の登板で自責点6、防御率8.53という不甲斐ない成績を残し、解雇を言い渡された。
「もはや、米球団には脈がない」と踏んだカムストックの代理人のミヤサンドは、1年前、内野手のクリス・ナイマンを送り込んだように、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団を打診する。しかし、南海のフロントは「最速143キロでは話にならない」と一蹴。

