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桑田・清原のPLを倒して茨城勢初優勝から41年甲子園なし…“世紀の番狂わせ”の公立校・取手二高は「今、2年生の野球部員は2人だけ」 

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内田勝治

内田勝治Katsuharu Uchida

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posted2025/08/20 11:00

桑田・清原のPLを倒して茨城勢初優勝から41年甲子園なし…“世紀の番狂わせ”の公立校・取手二高は「今、2年生の野球部員は2人だけ」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

1984年、「KKコンビ」を擁する最強PL学園を破って優勝した取手二高。それ以来41年間、甲子園には無縁な同校を訪ねた

「今の2年生、1年生もそうですが、学年によってばらつきが出ることが多く、これが続くとまた同じことの繰り返しです。人数が少ないとランナーを付けての実戦ができないので、とにかくウチの選手は走塁が下手なんです。だから、昨年のオフから同じく部員数が少ない高校と合同練習をやって、走塁不足をカバーしてきました。そうしたら、シーズンに入ってもすぐにランナーの動きができます。もう少し早く気づいてやらせていればよかったです」

1980年代のスカイブルー軍団

 優勝メンバーの大多数は取手二に憧れ、入学を志した世代だ。下田は中3時の1981年夏、3度目の甲子園を戦うスカイブルー軍団の勇姿をアルプスから見守った。

「地元の取手二から甲子園に出ると決めていました。当時はそういう子がいっぱいいました。その前の甲子園(1977年夏、1978年夏)も全て応援に行って、本当にファンでしたね」

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 1982年。取手二の門を叩き、野球部に入部した1年生は60人もいた。木内監督は最終的に21人となったこの世代に可能性を感じ、2年後の甲子園で「ベスト4以内」に入ると宣言。実は翌1983年に新設校の常総学院へ移ることが内々で決まっていたが、それを1年先送りするほどの期待のかけようだった。

僕たちは怖かったから嫌われていた

「常総の1期生、2期生としょっちゅう練習試合や合同練習をやっていました。僕たちは怖かったから、当時の常総の子たちはウチらのことを大嫌いだったんじゃないですかね(笑)」

 当時の取手二ナインは、できたての野球部などまるで相手にしていなかった。それほどまでに個性と実力を兼ね備えた選手が揃っていた。石田文樹(大洋、横浜)、吉田剛(近鉄、阪神)、中島彰一、桑原淳也、佐々木力、そして下田の6人は、下級生時から試合に出続け、2年時の1983年選抜に出場。大舞台での実戦経験を積んでいった。

【次ページ】 スクイズのサインを見逃して……

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