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甲子園の風BACK NUMBER
「あの郭泰源と対戦して台湾の新聞1面に」名門・柳川高の甲子園復活に懸けるOB監督「修学旅行で宇宙旅行と甲子園、どちらが先か勝負(笑)」
text by

内田勝治Katsuharu Uchida
photograph byKatsuharu Uchida
posted2025/08/08 11:03
九州の古豪・柳川高を率いるOBの御所監督。その高校時代にはそうそうたる選手たちとの出会いがあった
郭泰源のボールが「見えんばい……」
「『ピッチャー郭』とアナウンスされた瞬間、グラウンドキーパーが3人ほど出てきてマウンドの整備を始めたんです。そこにスタスタと歩いていく郭泰源という男は、まさしく台湾のスーパースターでした」
右腕から放たれるボールは、凄まじい切れ味だった。御所さんの前の打者2人はいずれも三振。あきらかにボールが捕手のミットに吸い込まれた後にスイングをしていた。
感想を聞くと、「御所、見えんばい……」。その意味は、初球、外角の直球を見送った時に悟った。近づいてくるボールが、あまりの速さに小さくなっていく感覚は、後にも先にもこの時だけだった。
「郭が打たれた」台湾の新聞1面に
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ただ、見えなくなるほどではなかった。次の内角直球をボール球としっかりと見極めることができ、「打てるかもしれん」と自信が芽生えた次の瞬間、主審が「デッドボール」の判定を下した。ユニホームの袖にわずかに触れていたのだ。打ちたかった気持ちを抑え、渋々一塁へ歩くと、次打者の中島が中堅の頭上を越える打球を放った。本塁でのクロスプレーをかいくぐり、一塁から長駆ホームインすると、翌日、台湾の新聞1面で「郭が高校生にタイムリーヒットを打たれる」と大きく報道された。
「中島はそのときの感覚がよくて、プロで郭が西武にいる時も結構ヒットを打っていましたね」
そんな経験ができたのも、福田監督がいたからだ。全盛期の柳川商を10年(69~79年)、そして校名が変わった柳川を12年(80、83~94年)率い、春5度、夏3度の甲子園出場に導いた名将は、時代に合わせてその指導法を柔軟に変化させてきた。

