甲子園の風BACK NUMBER
“酷使で壊れた沖縄水産エース”大野倫が証言「栽先生には感謝しています」名門凋落のきっかけは“ある事件”…最後の甲子園出場“98年最強世代”の無念
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松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2025/08/06 11:06
1991年夏の甲子園で肘を痛めながら計773球を投げ、投手の道を絶たれた大野倫。のちに野手としてプロ野球選手となった
大野の奮闘には拍手を惜しまないが、投手としてのキャリアを絶たれるという結末は「高校野球の美学」として片付けるにはあまりにも酷だった。指導者として適切な配慮ができていたのか――栽はメディアのバッシングを受けた。
凋落のきっかけになった「暴力事件による出場辞退」
夏の甲子園で決勝まで進むと新チームの始動は遅くなる。さらに当時、甲子園優勝、準優勝のチームの監督は、それぞれ全日本選抜チームの監督、コーチとして日米韓三国親善高校野球に参加することになっていた。栽もコーチとして2年連続で参加し、さらに国体のチームの監督まで務めたため必然的に新チームを見る時間が少なくなる。準備不足は否めず、秋の県大会は早々に敗退してしまった。
あるOBによると、栽は高校ジャパンの帽子を被りながら沖縄水産の練習に出ていた時期があったという。
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「栽先生、よっぽど気に入ってんだな」
選手たちはヒソヒソと話をする。批判こそあれど、このときの栽が監督人生43年のなかで栄華の頂点にいたのは間違いない。その象徴が高校ジャパンの帽子だった。
そして翌年夏、“今年こそは甲子園優勝”と県民の期待が高まるなかで事件は起こってしまった。
暴力事件により夏の県大会出場辞退。初戦1週間前の1992年7月6日に辞退会見を行い、沖縄全土に衝撃が走った。
暴力事件の内容は、日頃の2年生の練習態度に腹を立てた3年生部員8人が練習終了後にサブグラウンドに残っていた2年生25人を集めて尻をバットで数回殴ったというものだった。いわゆる「ケツバット」だ。だが、ここまで記してきたような野球部の内実を考えれば、遠からずなんらかの問題が露見していた可能性が高い。いずれにしても、この事件をきっかけに沖縄水産が凋落していったと見る向きも多い。

