甲子園の風BACK NUMBER
高校野球“消えた名門公立校”沖縄水産のナゾを追う「飲酒、喫煙は当たり前」超ヤンキー高校がなぜ甲子園の常連に?「賛否両論の名将」栽弘義の正体
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松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph bySankei Shimbun
posted2025/08/06 11:04
沖縄水産を全国レベルの強豪校へと引き上げた名将・栽弘義。だが栽亡きあと、同校は甲子園の土を踏めずにいる
OBの証言「栽先生が沖縄野球の基礎を作った」
栽はグラウンド作りに励みながら、せっせと各中学校を回った。いい選手がいると聞けば、北は名護から南は糸満まで、どこへでも出向いた。そしてあるひとりのピッチャーと出会う。那覇市立松島中学の比嘉良智。身長は180cm超。がっちりした体格から繰り出されるボールは速くて重い。のちの沖縄県初のドラフト1位指名を受けた投手だ。比嘉は内地の強豪名門校の誘いを断って、もっとも熱心に誘ってくれた栽の沖縄水産へと進学する。
結局、一度も甲子園の土を踏めなかった比嘉だが、沖縄水産を常勝にするための基礎作りに青春をかけた。興南の仲田幸司(元阪神)との投げ合いは、70年間の沖縄高校野球史の中でも類を見ない熱戦だった。
比嘉はこう話している。
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「なぜ(2010年に)興南が春夏連覇できたのか。栽先生が沖縄野球の基礎を作ってくれたからです。栽先生が小禄、豊見城でやってきた指導が底辺に広がった。大学、社会人というルートを作ってくれて、上のレベルでやった教え子たちがいま少年野球を教えている。高校野球の一番の役目は、夢を叶えてあげること。その夢を手助けするのが指導者。栽先生はきちんと全うしました」
比嘉が卒業した84年の夏、沖縄水産は初の甲子園出場を決めた。比嘉のような突出した選手はいなかったが、チームワークで県大会を勝ち進み、見事に甲子園の切符を手にした。
栽は、この世代の選手たちに口酸っぱくこう言った。
「個人プレーの延長がチームプレーになるんだ。仲良しプレーをするな。ボールは一個しかない。エラーしたらドンマイと言って負けていいのか。確実にさばく。どんなプレーでも責任を持って確実にさばいていけば、チームワークは後からついてくる。チームワークは育てるものではない」
栽の教えを受けたキャプテンの宮平博が、技術は足りないが精神力の強いヤンチャな選手たちをまとめて勝利に導いた。ただ栽はこの年の甲子園で指揮を執っていない。新聞広告に出たとしてアマ規定に抵触し、83年秋から1年間の謹慎処分を受け、甲子園にはコーチだった神山昴が代理監督として出場している。そして、この翌年の85年に“沖縄の星”上原晃が入学し、沖縄水産の黄金期が形成されていく。
<続く>

