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「先輩がパイプ椅子で後輩を殴打」PL学園野球部で暴力事件、出場停止も…甲子園優勝7回の最強野球部で何が? 名門の崩壊がはじまった日 

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柳川悠二

柳川悠二Yuji Yanagawa

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posted2025/07/29 11:05

「先輩がパイプ椅子で後輩を殴打」PL学園野球部で暴力事件、出場停止も…甲子園優勝7回の最強野球部で何が? 名門の崩壊がはじまった日<Number Web> photograph by JIJI PRESS

かつて甲子園球場の名物となっていたPL学園応援団の人文字

「学力は東大、野球は甲子園」PL創生期

 1955年に開校し、その翌年にスタートしたPL学園野球部を深く知るのは井元俊秀(89歳)だ。学園の1期生であり、同校が初めて甲子園に出場した1962年春と夏には監督を務めていた人物だ。しかし、彼の名前が“レジェンド”として語り継がれるのは、スカウトとして多くの選手獲得に尽力し、黄金期を陰から支えていたところにある。井元は言う。

「2代教祖の肝いりでPL学園の野球部はスタートし、校内には『学力は東大、野球は甲子園』のスローガンが掲げられていました。監督を務めたあと、2代教祖の布教活動を広報する立場に就いていた私は、教祖とともに全国を行脚するなかで、有望な中学生がいると聞けば視察に訪れて、PL学園に勧誘していました」

 1978年夏に初めて全国制覇を遂げた代の主力である木戸克彦や西田真次らは井元が熱心に彼らの自宅まで通って説得し、入学に導いた選手たちであり、彼らが逆転に次ぐ逆転でトーナメントを勝ち上がったことから、「逆転のPL」が同校野球部の代名詞となっていく。

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 そして1980年に中村順司氏が監督となり、いよいよPLは黄金期を迎え、春3回、夏4回の全国制覇を誇る人気校となった。選手の入学や野球部の強化には、教団信者の浄財が投下され、絶大な力を持続させていく。

黄金期の裏で…暴力はびこる野球部

 しかし、選手の全員が研志寮に暮らす野球部には、「3年神様、2年平民、1年奴隷」という厳格な上下関係があり、意図が不明なルールがいくつも存在したことは、多くの人が知るところだろう。この不文律がその後の不祥事の温床となっていく。

 2000年代以降は度重なる暴力事件(不祥事)の発覚によって信頼を失っていき、河野有道監督時代の2001年には、先輩が後輩をパイプ椅子で殴打する事件が夏の組み合わせ抽選会直前に明るみになり、3年生は最後の大阪大会を出場辞退。井元も責任を取らされる形で学園と教団を追われてしまう。この頃から一蓮托生だったPL教団とPL学園野球部の関係は瓦解し、教団もかつてのように浄財を投じることはなくなっていく。

 そしていつしか大阪の雄の座はPLから大阪桐蔭へ移る。2010年代に入っても、PLでは相変わらず暴力問題が連発し、いよいよ業を煮やした教団が、監督に野球経験者を置かず、野球素人の校長が監督を兼任していたのが2014年だった。

 私が初めてPL教団の聖地を訪れたのもその年の夏だった。

〈つづく〉

#3に続く
PL学園の暴力事件…原因は本当に野球部だけにあったのか? “事実上の廃部”から9年…地元はひっそり「ほんまにがっかり」PL花火も消えた夏
この連載の一覧を見る(#1〜4)

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