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「PL学園の生徒数…わずか39人に」高校野球“消えた名門”PL学園の今…聞こえた校歌のメロディ、封鎖されたPL花火大会の臨時改札「なぜ衰退したのか?」 

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柳川悠二

柳川悠二Yuji Yanagawa

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posted2025/07/29 11:04

「PL学園の生徒数…わずか39人に」高校野球“消えた名門”PL学園の今…聞こえた校歌のメロディ、封鎖されたPL花火大会の臨時改札「なぜ衰退したのか?」<Number Web> photograph by NumberWeb

梅雨が明けたばかりの7月上旬にPL学園を訪れた

 ちなみに、花火大会の翌朝、PL学園野球部の選手たちは打ち上げ会場となる光丘カントリー倶楽部を練り歩き、花火の残骸を拾う通称「ガラ拾い」を行うのが慣例だった。だが、高校生にとって七面倒なこのガラ拾いが免除となる唯一の手段があった。野球部OBの宮本慎也氏は、かつて私の取材にこう証言している。

「夏の甲子園に出場することができたら、このガラ拾いは免除となる。PLの野球部の人間にとって、(大阪大会で敗退したことを意味する)あのガラ拾いだけは絶対にやりたくない、最も屈辱的なことなんです」

 87年の春夏連覇に2年生ながら貢献した宮本氏は3年の夏、大阪大会で敗れ、その屈辱を味わうことになる。

この夏、PL学園を訪れると…

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「神道系の新宗教であるPL教団」と「幼稚園からの一貫校であるPL学園」、そして「KKコンビをはじめ数多のプロ野球選手を輩出した硬式野球部」は密接にして強固に結びついていた。だが、平成の時代に入って三者の関係にひずみが生まれ、瓦解が始まってゆく。

 PL学園野球部とその母体であるPL教団が抱える問題を2014年から追及してきた私は、この11年の間に富田林をいったい何度訪れただろうか。2016年に入ると毎週のように通っていたし、同年7月に硬式野球部が活動を休止――いや、事実上の廃部となって以降も、花火大会や正月の時期、入試のタイミングなど年に3、4回は足を運んできたため、その回数は50回以上になるだろう。

 今年も梅雨が明けたばかりの7月上旬に訪れた。学園の生徒たちが登校する朝の時間帯を見計らって、喜志駅から急勾配の坂を登っていく通学路を歩いた。しかし、見かけるのはPL学園の向かいに位置する喜志中学の生徒ばかり。もちろんPL学園の生徒の多くは、敷地内の寮で暮らしているため通学生はもともと少ないはずだが、それでも間もなく1限目の授業が始まるというのに人の気配がまるでない。

【次ページ】 校歌のメロディが聞こえてきた

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