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「お風呂から上がると留守番電話が」ホークス移籍通告で放心状態のスラッガー・多村仁志の「スイッチが入った」王貞治監督の“ある言葉”とは
text by

石塚隆Takashi Ishizuka
photograph byJIJI PRESS
posted2025/07/18 11:41
愛着ある横浜から“放出”されると受け止めて放心していた多村の心を動かしたのは、王貞治監督の「あるひと言」だった
「チームに合流してすぐ球団社長にチームの方針を説明してもらうと『トライアングルで言えば、選手が一番上です』と言うんです。つまり選手ファースト。次に選手を応援してくれるファンの方々がいて、最後はファンが払ってくれる対価を受け取る球団がいる。それを選手に色々な形で還元して良いパフォーマンスを見せてくれれば、さらにファンが喜んでくれるというトライアングルなんだと。当時の横浜とはまったく違う価値観だったので、すごく驚かされたのを覚えていますね。だから選手たちは思う存分、力を発揮できるのかなって」
そして快く迎え入れてくれたチームメイトたちの熱量も多村に刺激を与えた。30歳になる多村は、若手が多いベイスターズでは年上の存在だったが、ソフトバンクには松中信彦をはじめ、巨人から戻ってきた小久保裕紀や柴原洋、大村直之といった自分より年上の選手が多くおり、そんなベテランたちが誰よりも汗をかき練習をしていた。
「強力打線を引っ張ってきたベテランの方々が、春季キャンプでは朝の暗いうちから準備をして、日が暮れるまで練習をしていました。そんな姿を見ていると、後輩たちはやらざるを得ないし、それ以上やらなければ抜くことはできない。そういった環境がホークスには当たり前のようにあったので、僕もそのなかに入って、30歳になる節目で改めて体作りができたというのは、その後の野球人生を考えても大きかったと思います。確実に選手生命は伸びたと思いますね」
もしもベイスターズに残っていたら
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環境が思考を変え、人を育てるというが、もしあのままベイスターズに残っていたら、その後の野球人生はまったく違うものになっていたかもしれない。そう問うと、多村は真っすぐな目をして頷いた。
「“たら・れば”になりますけど、もしあのままベイスターズに残っていたら、現状に胡坐をかいていたかもしれないし、怪我で早々に駄目になっていた可能性もあったと思います。しかしホークスに行き、体を一から作り直し、そして野球に対するひたむきな姿勢というのを学ぶことができました。トレードということで最初はナーバスになっていましたけど、今思えば、福岡に行って本当によかったなと思っていますね」
ソフトバンク最初のシーズンとなった2007年は、開幕戦から挨拶代わりの2本塁打を放つなどスラッガーとしての真価を発揮。さらにシーズン中は、4度の肉離れを起こしながらも、試合に出場しつづけ規定打席に達することができた。


