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阪神タイガース暗黒時代は“ゼニ勘定優先”「弱くてもお客さんは甲子園に来る」「たとえば契約更改…上から目線で」江本孟紀が見た“スーツ組”
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江本孟紀Takenori Emoto
photograph bySports Graphic Number
posted2025/07/21 06:01
今も昔も盛況な阪神の本拠地・甲子園球場だが……江本孟紀氏が見た“当時の球団経営スタイル”とは
それでも、「一軍と二軍は何が違うのか」「再び二軍に戻ったら、どんなことをテーマに掲げて練習に取り組んだらいいのか」などを自分なりに考えて、課題を克服すべく日々の練習に励む。そうして、また二軍で結果を出すことができれば、再び一軍に行く――ということを繰り返して一軍に定着していく選手などプロ野球の世界にはゴロゴロいる。ブレイザーは「二軍で揉まれて、たくましく成長した岡田」になってからでもレギュラーに定着させるのは遅くないと判断してのことだったのだ。
ブレイザーがいなくなったことが暗黒時代の契機に
ただ、私はブレイザーがいなくなったことは、のちの阪神に暗い影を落とし、暗黒時代を迎えた決定的な要因だったと考えている。
かつてパ・リーグのお荷物球団といわれた阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)がダリル・スペンサーが加入したことでパ・リーグ屈指の強豪チームに変貌し、南海も鶴岡一人さんの野球が限界を迎えたところでブレイザーが加入し、野村克也さんのもとで「シンキング・ベースボール」を注入し、弱小の戦力でも優勝争いできるだけのチームに育てた。阪神も弱小チームになりかけたところにブレイザーがやってきて「シンキング・ベースボール」を注入すれば、これまでの野球と180度違った戦い方ができる。そう期待していたのだ。
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それができなくなった時点で、阪神がセ・リーグのお荷物球団と化していくのは必然だったのである。
暗黒時代にフロントがチーム強化より重視していたこと
1980年代から1990年代にわたって続いた暗黒時代から阪神の上層部は何を学んだのか。私は「チームを強くすること」ではなく、「ゼニの稼ぎ方」を覚えたのだと確信している。なぜなら、「どんなに弱くても、お客さんは甲子園球場にしっかり来てくれる」ことを知っていたからだ。
私が引退した1981年から1998年までの18年間のチーム成績と観客動員数を見てほしい(※外部配信サイトからは関連記事から表をご覧になれます)。
観客動員数を見れば、私が現役最後の年となった1981年が最も少ない。それでは日本一になった年が最高だったのかといわれれば違う。2位に終わった1992年の285万3000人が最高なのである。
注目してもらいたいのは、吉田さんが監督の時代の観客動員数である。


