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阪神OBが語る“契約更改”舞台ウラ「この金額でハンコを押せません」「5~6度も…200万円アップした選手も」…恒例の“お家騒動”2大原因もズバリ
posted2025/07/21 06:02
阪神時代の江本孟紀。活躍したシーズンの契約更改が強く印象に残っているという
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江本孟紀Takenori Emoto
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JIJI PRESS
私が体験した“シブチン更改”の舞台裏
引退してからかれこれ40年がたつが、講演会などで一般の人に質疑応答をした際、いまでもよく聞かれることがある。
「契約更改って、結構モメたりするんですか?」
どうやら、一般の人からすると、契約更改でモメるのはどんなケースなのか想像がつかないというのだ。
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だから、私はあえて「いまの選手は、ちょこっと活躍しただけでも簡単に年俸が上がってしまう。われわれの時代とは、ちょっと違うんですよ」と前置きをしたうえで、「年俸を上げるのは、そう簡単なことじゃないんですよ」と答えるようにしている。
東映で1年、南海で4年、阪神で6年と、阪神時代が最も長かったので、契約更改というと、阪神時代の印象が強い。
私の年俸は南海を出たときには800万円を超えるくらい。移籍1年目の1976年には15勝を挙げたので、「いったい、どれくらい上がるんだろう?」と胸躍らせながら球団事務所で交渉に臨むと、なんとアップした金額は90万円。つまり、900万円にすら届かなかったのである。
パから来た君の年俸を吊り上げるわけにはイカン
当然のことだが、不満に思った私は、簡単には判を押さない。
「いくらなんでも、この金額ではハンコを押せません。勘弁してください」
そう言ってはみたものの、相手は金額を上積みするそぶりすら見せない。今日のところは、どんなに粘っても埒が明かん――そう判断した私は交渉を打ち切って、後日また訪れることにした。2度目の交渉のテーブルにつくと、提示された金額は前回よりさらに60万円アップ。トータルで150万円のアップとなったが、これでも1000万円には届かない。
すると、目の前にいる上層部のひとりが、こんな話をし始めた。

