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バセドウ病、失明危機、子宮の病…元女子バレー日本代表・鍋谷友理枝(31歳)が明かす壮絶な13年「18歳で宣告…なんで私は健康じゃないの?」
text by

田中夕子Yuko Tanaka
photograph byShigeki Yamamoto
posted2025/07/10 11:03
リオ五輪や2度のワールドカップに出場するなど、日本代表としても活躍した鍋谷友理枝(31歳)。2024/25シーズンをもって現役を引退した
鍋谷がバレーボールと出会ったのは小学校3年生の時。春高準優勝した経歴をもつ両親のもとで育ったとあって、小さい頃からバレーボールに触れる機会は多く、学校内のクラブに入部するのも自然な流れだった。
私学の中学校に進学したが、優先順位は勉強よりバレーボールが上。淑徳SC中の3年時には初めて全国大会を経験した。ただ、鍋谷曰く、全国中学校体育大会は「ボロ負け」で、東京都代表として出場したJOC杯は「史上最弱のチーム」だったという。
とはいえ、鍋谷自身に目を向ければ存在感は際立っていた。恵まれた運動能力の高さはもちろん、当時はセッターとしてもプレーできる器用さを兼ね備えており、全国の強豪校から声が掛かった。
名門“東龍”で春高バレー制覇
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鍋谷が選んだのは、地元から遠く離れた大分県・東九州龍谷高校だった。
「両親は何も言わなかったですけど、唯一 、父から『オープントスを打つタイプではないから、速いバレーで技を磨いたほうがいいんじゃないかな』と言われて、確かにそうだなと思ったんです。でもそれ以上に大きかったのは、家に帰ると勉強もせず、マンガを読んだりゲームばかりしていつも親に怒られていたので、親元を離れたいという浅はかな理由もありました(笑)」
“東龍”と呼ばれる同校は、高校女子バレーの強豪校として名高い。鍋谷が入学した2009年も高速バレーでインターハイと春高を制するなど、まさに世代を席巻した存在だった。
強さを象徴する赤と白のユニフォーム。部員全員の統一されたスパイクフォームを見れば、練習や日常生活も徹底管理を想像する。傍目には“自由”からほど遠い集団に感じるが、鍋谷の言葉を耳にすると実情は違う。
「寮も一人部屋なのでプライバシーも保たれていたし、練習も朝9時から始まって15時頃には終わるので、食事当番がなければその後は自由時間でした。1年生の頃は他校と練習試合も組まれていたけど、東龍は基本的に午前中だけ練習試合をして午後はオフ。身体を休める時間に充てられていたので、(練習試合の)相手チームからは『もう帰っちゃうの?』という目で見られることがよくありましたね」
携帯電話をNGとする学校も多い中で、私生活で禁じられたのはお菓子と炭酸飲料だけだった。その一方で「今、振り返ればおかしな決まり事もたくさんあった」と笑う。


