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「風評被害はありました」全校生徒89人“ナゾの新設校”エナジックで甲子園出場…神谷嘉宗監督とは何者か?「ケツバットで野球部を辞めた」意外な経歴 

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松永多佳倫

松永多佳倫Takarin Matsunaga

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posted2025/06/23 11:03

「風評被害はありました」全校生徒89人“ナゾの新設校”エナジックで甲子園出場…神谷嘉宗監督とは何者か?「ケツバットで野球部を辞めた」意外な経歴<Number Web> photograph by JIJI PRESS

エナジックスポーツ高等学院野球部の神谷嘉宗監督(70歳)。その指導の源泉には、かつて味わった理不尽な経験があった

 1970年代当時は上下関係が異常に厳しく、“説教”という名の理不尽なシゴキが日常茶飯事だった。どこの部にも所属しない神谷だったが、体育の授業などで運動神経の良さを見せたことで、その才能を埋もれさせてはいけないと周囲が説得を重ね、夏を過ぎた頃に野球部に入部する。

「入部してすぐに四番・サードで使われました。でも、いきなり試合に出たからなのかわからんけど、納得のいかないケツバットをされた。『なんでやられないといけないの?』と思って辞めました」

 こうした理不尽な仕打ちによって、前途ある有望な選手が全国でどれだけ辞めていったことだろうか。神谷もそのうちのひとりで、結局3カ月で野球部を退部した。

「神谷さん、甲子園出られないね」

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 神谷が本領を発揮したのはここからだった。その運動能力に目をつけていたバレー部の監督がすぐに勧誘し、未経験にもかかわらず持ち前の運動能力の高さによって1年生大会で活躍。春高バレーでベンチ入りし、2年時にはインターハイにも出場した。3年時は予選で準決勝敗退したため、今度はラグビー部に駆り出されてフランカーとして九州大会に出場。まるでアメリカンハイスクールの有望アスリートのような高校生活を送った。

 他の競技で活躍した神谷だったが、野球への情熱を失ったわけではなかった。

「中学1年生のとき、68年夏の甲子園で初めてベスト4に進んだ興南旋風を目の当たりにしたことで、高校野球の指導者になりたいと夢を抱きました。体育の先生になって、高校野球の監督になろうと」

 琉球大学教育学部を卒業後、宮崎県都城東高校の野球部長を2年務め、沖縄に戻って八重山高校の監督に就任した。その後、1985年には前原高校、90年には中部商業に赴任。中部商業時代は秋季九州大会に3度出たものの、センバツ出場にはあと一歩及ばず。2001年の夏はエースの糸数敬作(元日本ハム)を擁して県大会決勝に進むが、3対0で宜野座に敗退した。

 翌02年より浦添商業に転勤するも、その年の夏の甲子園には春まで指揮を執っていた中部商業が出場。この頃から、県内では神谷を“悲運の名将”と呼ぶようになった。浦添商業では05年、07年にも夏の決勝に進むも、それぞれ沖縄尚学、興南に敗退。甲子園は近いようで遠かった。

【次ページ】 「本土の高校に誘われました」なぜ新設校の監督に?

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