熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「日本の環境にガク然。ブラジルへ帰ろう」ラモス瑠偉がいなければ…“FC東京のキング”が苦悩した若き日「ディスコに連れ出してくれたんだ」
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沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byEtsuo Hara/Getty Images
posted2025/06/27 17:01
FC東京時代のアマラオ。日本在住30年を超える名ブラジル人FWに今までと現在を聞いた
「10歳のとき地元のポンチ・プレッタのU-11のテストを受けて合格して、練習に励んだ。練習がない日は綿花畑で綿摘みをしたり、スーパーマーケットで働いたりして家計を助け、さらに夜学へ通った」
――この頃から、将来、プロ選手になりたいと考えたのですか?
「そうだね。でも15歳のときに一家が別の町へ引っ越し、ポンチ・プレッタの練習に通えなくなった。その後は旋盤工になるための勉強と実習をしつつ、週末だけ地元のアマチームでプレーした」
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――とすると、プロになる夢が少し遠のいたのでしょうか。
「客観的に見れば、かなり厳しい状況だったかもしれない。でも、僕は決して夢を諦めなかった。この頃、チームのアタッカーがシュートを外し続けるのを見て、『自分の方がもっとうまくシュートできる』と考え、FWにコンバートしてくれるよう監督に直訴した。僕がトップで点を取った方がチームが勝つ可能性が高まると考えたからなんだ」
――プロ選手になる道が開けたのは?
「17歳で学校を卒業し、旋盤工として働き始めた傍ら、サンパウロのビッグクラブのU-20のテストを受けたんだけど、軒並み不合格。それでも夢を諦めず、パルメイリーニャというサンパウロ州3部のクラブのU-20で腕を磨き続けた。20歳で州3部のカピバリアーノのテストを受けて合格。コメルシアルという州3部のクラブへ貸し出され、初めてプロ契約を結んだ。この年に16得点をあげ、チームも州2部へ昇格した」
ネルシーニョから高い評価を受けたんだ
――ここでようやく、キャリアが転がり始めた。
「とはいえ州3部では給料が少なく、そこからが本当のスタート。1988年にはカピバリアーノへ復帰し、18得点をあげて2部昇格。さらに翌年、州2部のイトゥアーノへ移籍し、優勝と1部昇格に貢献したんだ。
1991年末には足の付け根の痛みに悩まされたけど、無理を押して試合に出場した。この試合を視察していたパルメイラスのネルシーニョ監督(後にヴェルディ川崎、名古屋グランパス、柏レイソル、ヴィッセル神戸などで采配を振った名将)から高い評価を受け、1992年はじめにパルメイラスへ期限付き移籍したんだ。当面はブラジル代表FWエバイール(1995、96年に横浜フリューゲルスで活躍)の控えだったけれど、デビュー戦でいきなり得点。その後も、出場機会を与えられるとまずまずのプレーができたんだ」
引き止められたが東京ガスの給料がとても…
――パルメイラスは名門中の名門クラブです。そんなあなたが日本へと渡るきっかけとなったのは?

