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「日本の環境にガク然。ブラジルへ帰ろう」ラモス瑠偉がいなければ…“FC東京のキング”が苦悩した若き日「ディスコに連れ出してくれたんだ」
posted2025/06/27 17:01

FC東京時代のアマラオ。日本在住30年を超える名ブラジル人FWに今までと現在を聞いた
text by

沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Etsuo Hara/Getty Images
「愕然としたよ。一時は契約を破棄してブラジルへ帰ろうと思った」
25歳のときに初めて踏んだ日本の地。当時のアマチュアクラブには、まだフットボールの満足な環境や文化すらなかった。しかしそれから33年――Jリーグの舞台で長年活躍し、さらには今もなお日本に残って指導者という立場に身を置くストライカーがいる。
ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ。愛称「アマラオ」である。
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彼が計12年間を過ごしたFC東京(加入当初は東京ガス)を退団してから、すでに21年が過ぎた。
しかし現在に至るまで、FC東京のサポーターは味の素スタジアムのゴール裏に「KING AMARAL STADIUM」の巨大な横断幕を掲げ、「KING OF TOKYO」の文字とこの男の顔を描いた特大フラッグを吊るし続けている。ペレも、マラドーナも、ロナウジーニョも、メッシも、人々からこれほどの愛情を注がれてはいない。
世界で最もサポーターに愛され、なおかつ永遠に愛される男、と言っていいのではないか――。
とはいえアマラオ自身、30年を超える日本生活の中で愛する妻と死別するなど、すべてが順風満帆だったわけではない。ピッチ内外での半生を、本人に語り尽くしてもらった。
“アマラオ以前”はヘンテコなニックネームだった
――1966年10月16日生まれで、現在、58歳。生まれたのは、サンパウロ州内陸地のピラシカーバですね?
「3男3女の長男で、父は観光バスの運転手。あまり裕福じゃなかったから、6人の子育ての傍ら、母親も色々な仕事をしていた。初めてボールを蹴ったのは、4、5歳の頃。叔父が地元のキンゼ・デ・ピラシカーバでプレーしており、フットボールの手ほどきを受けた。毎日、路上や広場で同じ年頃の子供とボールを蹴って楽しんでいた」
――あなたのフルネームは、ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ。「アマラオ」という名前はどこにもない。
「8歳のときに一家がサンパウロ郊外へ引っ越した。僕は大柄だったから、学校のチームでCBとしてプレーした。この町に本拠を置くグアラニーにアマラオというCBがおり、1978年W杯に出場した名選手だった。僕と顔の輪郭、肌の色が似ていてポジションが同じだったから、こう呼ばれるようになった。それまでリングイッサ(ソーセージ)、ピタンガ(ブラジリアン・チェリー)、サラダといったヘンテコなニックネームを付けられていたんだけど、初めて人間の名前になったから、『まあ、それでいいか』と思った(笑)」
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