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“伝説のルーキー”近藤真一の快投で「もうクビだと思ったんです」中日レジェンド・山本昌が「島流しと一緒」失意の米国で手にした“まさかの武器”
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酒井俊作Shunsaku Sakai
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2025/06/20 11:02
年下のルーキーの快投に衝撃を受けたプロ入り4年目の山本昌。一方でその後、失意のままに留学した米国で「まさかの武器」を手に入れることに
追い打ちをかけたのは88年の春である。2月の沖縄キャンプ中、大洋ホエールズとのオープン戦の開幕投手に抜擢されたが、1回に5失点KOで期待に背いてしまった。その直後、アメリカ・フロリダのベロビーチで行われた2次キャンプに同行したが試練が待っていた。
キャンプを終えたチーム本隊は公式戦を戦うため、日本に帰国した。だが、山本昌は星野仙一監督からそのまま数人の若手とともに残留を命じられたのである。ドジャースの1Aでシーズンを過ごすためであり、それは中日の戦力として見なされず、失格の烙印を押されたのも同然だった。勝負を懸けた5年目。光がいつか射し込み、そして朝がやってくるとは、到底思えなかった。
失意のアメリカ留学で…恩人との出会い
不本意な野球留学は、敗戦処理での登板からはじまった。不遇のなか、「島流しと一緒だ」と腐った。だが、そんな絶望のなかで絶えず見守ってくれた人がいた。
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「新しい武器を持て」
そう諭したのはドジャース会長補佐のアイク生原(生原昭宏)である。かつて早稲田大の捕手で、亜細亜大の監督としても辣腕を振るった。プロでの選手経験こそなかったが、情熱に溢れる人だった。やがて登板後の夜はともに食事をするのが恒例になり、親身なアドバイスをもらった。
「長嶋茂雄さんや王貞治さんに投げる時も、少年に投げるのと同じぐらいの気持ちでストライクを投げなきゃいけない。相手バッターやシチュエーションによってストライクが入らなくなるのはダメだよ」
山本昌は何度もそう言われた。
生原の教えはシンプルだった。初球からストライクを奪え。低めに投げろ。左投手はクロスファイアのボールをしっかり投げられるようになれ……日本にいた時から聞いてきたことである。だが、生原は同じことを何度も言ってくる。できているつもりが、できていなかったからだ。
また、生原はメジャーリーグの名投手と引き合わせてくれた。新しい武器となるヒントを探すためである。フェルナンド・バレンズエラにスクリューの握りを教わり、ドン・ドライスデールやサンディー・コーファックスにも変化球の投げ方を聞いた。
「いろんなボールを聞いたなかで一番ハマりそうなのはスクリューだなと思って。バエンズエラに握りを聞いたけど、凄すぎて全然、話にならなかった。でも、その日から毎日、ボールをずっと握っていたんです」

