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「もう野球はやめよう」のちの沢村賞投手が“プロ野球を諦めかけた”高校時代…佐々岡真司が「1989年の伝説回ドラフト」で広島の1位指名を受けるまで 

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中島大輔

中島大輔Daisuke Nakajima

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photograph byTadashi Hosoda

posted2025/05/29 11:02

「もう野球はやめよう」のちの沢村賞投手が“プロ野球を諦めかけた”高校時代…佐々岡真司が「1989年の伝説回ドラフト」で広島の1位指名を受けるまで<Number Web> photograph by Tadashi Hosoda

現役引退後は広島の監督も務めた佐々岡真司さん。現在は女子野球・三次ブラックパールズのGMを務めている

「もう野球はやめよう」プロの夢を諦めかけた理由

 もう一つは、夢のプロ野球選手になるためだ。

 後に沢村賞投手になる佐々岡だが、子どもの頃から夢見てきたカープ入団を断念しかけたことがある。浜田商業高校3年の夏、島根大会準決勝で敗れ、甲子園出場が絶たれた時だ。

「もう野球はやめよう、と。野球のしんどさと、母と子が一人ずつの母子家庭なので、母親の面倒を見ないといけないのもあったので。夏の大会が終わった時点で、母には『野球はやめて、島根に残る』という話をしました」

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 同世代でPL学園の桑田真澄、清原和博が1年生の頃から甲子園で躍動する姿を目の当たりにし、「同じレベルでは戦えない。自分はそこまでのレベルじゃない」という気後れもあった。

 しかし、後に沢村賞投手になるほどの才能は、簡単には見逃されなかった。「野球を続けなさい」。NPB球団のスカウトや、社会人チームの関係者から慰留された。

「それならまず社会人でやろう」と佐々岡は翻意し、幸い、自宅から近くにNTT中国というチームがあった。大企業の抱える野球部で、母親からも「NTTならいい」と許しが出た。

 そうして入社して4年目の1989年。佐々岡は自身の夢をかなえるべく、右肩の痛みをひた隠しに投げ続けた。

 7月の都市対抗野球では三菱重工広島の補強選手に呼ばれ、NTT東京との1回戦では与田との投げ合いを制して完投勝利。逸材のそろう1989年のドラフト候補たちの中でも、高い注目を浴びる存在になっていった。

プロ入りに“反対した”母と監督の思い

 だが、それでもプロ入りに反対する者がいた。母親だ。

「せっかくNTTという会社に入ったわけなので。それに僕の性格上、プロ向きではないと。プロに行けば、一から新しい環境で野球をすることになります。うちの母は心配性だったので、僕のプロ入りにずっと反対していて……」

 時計の針を大きく進め、現在57歳となった佐々岡と接しても、当時の母親の心配はよく想像できる。海千山千の集うプロ野球で選手として18年、そして監督を3年間務めた大御所のイメージとはかけ離れ、とにかく人が良く、優しさが滲み出ているのだ。

【次ページ】 「お前は出ておけ」カープとの契約交渉“保留”の真相

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