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「もう野球はやめよう」のちの沢村賞投手が“プロ野球を諦めかけた”高校時代…佐々岡真司が「1989年の伝説回ドラフト」で広島の1位指名を受けるまで
posted2025/05/29 11:02
現役引退後は広島の監督も務めた佐々岡真司さん。現在は女子野球・三次ブラックパールズのGMを務めている
text by

中島大輔Daisuke Nakajima
photograph by
Tadashi Hosoda
◆◆◆
これまで60回開催されてきたドラフト会議で、「大豊作」と語り継がれているのが1989年だ。
ロッテ、大洋(現DeNA)、日本ハム、阪神、ダイエー(現ソフトバンク)、ヤクルトと、ウエーバーの上位6球団がことごとく新日本製鐵堺の野茂英雄に入札。9番目のオリックス、11番目の近鉄も追随し、史上最多タイの8球団が同年の“目玉”であるトルネード右腕を1位指名した。
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一方、ウエーバー10番目の広島から真っ先に指名されたのが、野茂と同じ社会人投手の佐々岡真司だった。プロ入り1年目に中日のドラ1・与田剛と新人王を争い、翌年、沢村賞投手に輝いた本格派右腕だ。
プロ野球にはいくつものライバル物語がある。なかでも同世代や同期は、最もわかりやすい区切りだろう。
過酷な社会人野球時代「ここから抜け出すには…」
佐々岡が同じ1989年に指名された野茂や与田を意識するようになったのは、前年にソウル五輪を終えた全日本代表の合宿だった。
「すごいところに来てしまったな……」
当時NTT中国に入社して4年目の佐々岡は、全日本のブルペンで圧倒された。野茂のストレートとフォーク、与田の豪速球、さらに潮崎哲也が右サイドから繰り出すストレートとシンカーを間近で目撃し、「レベルが違う」と感じさせられたからだ。
それでも、自分も同じ全日本の土俵に立つことができた。合宿が終わる頃にはそう自信を膨らませた。
翌1989年、佐々岡は右肩に痛み止めの注射を打ちながら投げ続けた。そこまでして右腕を振り続けた理由は大きく二つある。
一つは、社会人野球の過酷な環境だ。午前中は出勤し、昼から夜遅くまで練習して、翌朝また会社で働く。
「ここから抜け出すには、絶対プロに行くしかないと思いました」
