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「中日の酷使で潰されたのでは?」29歳で引退“消えたスーパールーキー”上原晃の答えは…「星野さんに恨みはない」「やっと諦められたね」55歳の告白
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松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph byNumber Web
posted2025/05/04 11:06
55歳になった上原晃。現在は東海学園大学の硬式野球部でコーチを務めている
「野村再生工場」でもチャンスをつかめず…
広島をクビになった上原の年齢は28歳。ここからキャリアハイを迎える投手も多い。まだ心の炎は消えてはいない。さっそくヤクルトのテストを受けるために秋季キャンプに足を運んだ。
野村克也監督率いるヤクルトは「再生工場」と呼ばれ、トレードや戦力外で他球団を追われた多くの選手が野村監督の下で復活した。吉井理人、田畑一也は移籍後すぐに二桁勝利をあげ、廣田浩章は中継ぎで1997年の優勝に貢献していた。
秋季キャンプではキレのあるフォークでアピールに成功し、ヤクルトとの契約が決まる。
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「野村野球は本当に勉強になりました。毎日のミーティングでの板書を整理したら一冊のノートになったくらい。今まで“感覚の野球”だったところに“理論の野球”を教えられ、それがきちんとためになるんだよね。ノートに書いて残したのも大きかった。ああいう分析を若いうちにできていたら、もっとやれていたとあらためて感じました」
だが、結果的に1年間だけヤクルトで過ごした1998年が現役最後のシーズンになった。
「状態としては、中日をクビになったときや広島時代よりもずっと良かった。球速も143kmまであがってきて、あと少しで一軍というときにまた血マメができてね……。でも、岩村明憲とか左の石井弘寿とかが二軍にいる頃、先発してイースタンで優勝できて楽しかったですよ。野村さんが辞めたときに、球団経営がちょっと危うい感じで、たくさんの人を切るという噂が流れて、その中に入ってしまった。あと1年だけやりたかったかな」
朗らかに話しながらも口惜しさが滲み出ていた。2度の解雇の末、ヤクルトに拾ってもらい、最後のチャンスを手にするためにガムシャラに野球に打ち込んだ。血行障害による指先の調子も良く、球速がデビュー時に戻りつつあるなかで一軍昇格の話が出た。ところが運悪く血マメができて流れてしまう。手応えがあっただけに悔やまれた。
「実質的に、勢いのあった4年間でプロ生活は終わっているし、満足のなかで辞めているわけじゃない。怪我した選手はみんなそうだと思うけど……」

