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「挑発してきたGKに…ザマアミロ」“昔はヤンチャな苦労人”名FWマルキーニョスが語る日本愛「クボとミトマにホレ込んでる」「今すぐ日本で…」
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沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byTakuya Sugiyama
posted2025/04/18 17:02

横浜F・マリノス時代のマルキーニョス。2003年、2012、13年と計3シーズンプレーした
――生まれたのは、パラグアイ国境から200km足らずの農村ですね。
「そう。ただ生まれた直後、一家でここバタグアスー(注:人口2万人余りの小都市)へ引っ越した。当時父親が町の郊外にある農場で働いていて、農場のチームでプレーしていた。父親からボールの蹴り方を教えてもらい、すぐにフットボールに夢中になった」
――プロクラブのアカデミーで専門的な練習を始めたのは?
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「11歳のとき、300km離れた中都市カンポ・グランジに本拠を置くクラブのアカデミーのテストを受けて合格して、一家で引っ越した。でも練習環境は、ボロボロ。しかも15歳のとき、トップチームが活動を停止してしまった。やむなく、地元のアマクラブで練習しながら他の町のクラブの入団テストを受け続けた。田舎で生まれ育った悲哀を味わったよ」
“トラック運転手→飛び入りでテスト合格”説はホント?
――1997年、20歳にしてポンタ・グロッサに本拠を置くオペラリオのU-20のテストを受けて入団します。一説には当時、トラックの運転手見習いをしていて、テスト当日、たまたまこの町を通りかかり、飛び入りでテストに参加して合格したとか。
「面白い話だけど、事実とはちょっと違うな(笑)。トラック運転手だったのは父親で、彼がこの町を通った際、入団テストの張り紙を見たんだ。そのことを僕に教えてくれて、テストの日もトラックで会場まで連れて行ってくれた。U-20に入るには最後の年で、もう後がない。テストでは必死だった。合格できて、本当に良かった」
――オペラリオでの選手生活はどうでしたか?
「ここも練習環境はひどかった。選手寮に入ったけど、夏は無茶苦茶に暑く、食事が貧しい。いつもお腹を空かせていたよ。でも、プロクラブに入るのが非常に遅かったハンデがあったから、チーム練習後、必ず居残って右足、左足、ヘディングのシュート練習、DFとの1対1、GKとの1対1などの個人練習を繰り返した。ゴール前ならどの角度、どの距離からでもシュートが入るようにね。そして1999年、22歳でプロ入り初ゴールを決めた。天にも昇るような気持ちになった」
――1999年後半、強豪コリチーバへ移籍しました。そのいきさつは?
「僕のプレーを見たアベル・ブラガ監督が、興味を示してくれた。でも、当初は4カ月間の期限付き移籍だった。しかも当時のコリチーバはトップチームを再編成していて、選手が4チーム分もいた。僕が入ったのは、一番下のDチーム。AチームはBチームと、CチームはDチームと紅白戦を繰り返す。這い上がるには、紅白戦でアピールするしかない。僕は死に物狂いでプレーして点を取り続けた。その様子をブラガ監督が見ていて、Aチームの練習に呼んでくれるようになった」
相手GKが挑発…ザマアミロとの思いでバック転
――チャンス到来、ですね。