ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「カネは貯まったよ。月200万円以上…」故・グラン浜田が生前に遺していた“メキシコ豪快伝説”「猪木さんでも俺は投げられるんだよ。けど…」
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2025/03/09 17:24
今年2月15日に亡くなったグラン浜田さんの現役時代(1982年撮影)
日本のプロレスを変えた小さな巨人
そして1986年からは新団体ジャパン女子プロレスに娘のソチ浜田が入団すると、同団体のコーチ兼レフェリーに就任。1987年7月に起きた神取忍とジャッキー佐藤の凄惨な“セメントマッチ”でレフェリーを務めたのもじつは浜田だった。
「あんな試合になるとは思わなかったけど、ああなっちゃったらしょうがないでしょ。途中でケンカになってるのはわかったけど、ルール内でやってるから止めるに止められない。もう、好きにやってくれって」
1988年12月にはジャパン女子の顧問となっていた新間寿の仕掛けで、全日本を引退し同じくコーチをしていた大仁田厚とジャパン女子のリングで対戦。当時、日本に男女合同団体はなかったため、女子レスラーと観客の両方から反発を受けたが、この試合が大仁田が“1度目の”現役復帰をするきっかけとなった。
ADVERTISEMENT
浜田は「俺が大仁田の復帰の手助けをしちゃったんなら、バカみたいなもんだ」と憤るが、この試合でリングに戻った大仁田は1989年にFMWを旗揚げ。浜田も1990年から新間寿の息子、新間寿恒が設立した日本初のルチャリブレ専門団体ユニバーサル・レスリング連盟の中心選手として参加。これが日本プロレス界の多団体時代の幕開けとなった。
ユニバーサルでは、のちのウルティモ・ドラゴンである浅井嘉浩がスターになり、ザ・グレート・サスケ、スペル・デルフィン、新崎人生、邪道・外道、ディック東郷、カズ・ハヤシなど、名レスラーを多数輩出。現在あるほぼすべての団体は、このユニバーサルの遺伝子を少なからず受け継ぎ、ルチャリブレのエッセンスは日本のプロレスになくてはならないものとなった。
それらはすべてグラン浜田のメキシコでの成功から始まっている。身体は小さかったが、その影響力は絶大。グラン浜田は、まさに小さな巨人だった。

