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「カネは貯まったよ。月200万円以上…」故・グラン浜田が生前に遺していた“メキシコ豪快伝説”「猪木さんでも俺は投げられるんだよ。けど…」
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堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2025/03/09 17:24
今年2月15日に亡くなったグラン浜田さんの現役時代(1982年撮影)
「猪木さんでも俺は投げられるんだよ。けど…」
こうして浜田は新日本に入ると、一緒に入門した関川は早々に退団したが、ひとり新日本の厳しい練習に生き残り、1972年3月「旗揚げオープニングシリーズ」の愛媛大会で藤波辰巳(現・辰爾)戦でデビュー。スピーディーではつらつとした浜田と藤波の試合は、黎明期の新日本前座の名物カードとなった。浜田は“元祖ヤングライオン”だったのである。
「藤波さんとデビュー戦からずーっとやって、たぶん46戦43敗2勝1分け。俺も一応柔道でやったほうだけど、こんだけ勝てないっていうのは、プロレスと柔道の違いだよね。柔道は投げれば勝ちだけど、プロレスは関係ないもんね。道場での練習でも例えばスクワットとか腕立てとか、基礎的な練習は柔道やってて体力あったからこなせたのよ。でも、グラウンドのスパーリングになったら、もうメチャクチャ。ぜんぜん通用しなかった。
こっちは柔道着を着てナンボだからね。猪木さんとも何回かやらせてもらったけど、猪木さんでも俺は投げるのは投げられるんだよ。だから『アントニオ猪木もこんなもんか?』と思ったけど、投げた次の瞬間に(関節技を)極められて、投げたこっちが悲鳴あげてるんだから(笑)。だから、きっと猪木さんは自分から飛んで投げられてたんだろうな。そういうのがすごく勉強になったね」
「月200万円以上貯金できた」メキシコ生活
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浜田のレスラーとしての転機は1975年、新日本プロレスの営業本部長だった新間寿のブッキングで、プロレスの“軽量級王国”メキシコへ無期限の海外武者修行に出たことだった。
「俺は新日にいるときは、ひとりだけ小さいでしょ? だから、いつまでここで使ってもらえるのかなって感じだったけど。メヒコに送ってもらったら、同じ階級のヤツがたくさんいて、それが良かった。これがアメリカに行ってたら、話にならなかったよ。ホームシックなんかには一度もならなかったな。なんの面でも、メヒコのほうが自由で楽しいから。日本なんて決まりごととか、しがらみがいっぱいあるじゃない? メヒコだとそんなこと一切考えなくていい。要は俺に合ってたのよ。毎日、一生懸命試合して、パーティーやって、バーベキューで肉焼いて、ワーッ!って(笑)。日本はそうはいかないから。だから仕事的に一番いい場所に行ったよね」
