ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「カネは貯まったよ。月200万円以上…」故・グラン浜田が生前に遺していた“メキシコ豪快伝説”「猪木さんでも俺は投げられるんだよ。けど…」
posted2025/03/09 17:24

今年2月15日に亡くなったグラン浜田さんの現役時代(1982年撮影)
text by

堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
「お金に不自由しないし、女に不自由しない、食うものも寝床も不自由しない。それで好きなプロレスをやって、試合終わったら趣味の魚釣りに行くんだから言うことない。天国ですよ!」
かつて海外武者修行で訪れた多くのプロレスラーが水道水の質の悪さでお腹をこわし体重が激減したことから「地獄の修行先」と呼ばれたメキシコを「天国」と称したプロレスラーがいた。メキシコのプロレス「ルチャリブレ」の日本人第一人者であるグラン浜田だ。
浜田は1972年3月、新日本プロレスの旗揚げ直後にデビューし、1975年にメキシコ武者修行に出発。現地のメジャー団体UWAで世界三階級を制覇するなど大活躍。日本人として初めて現地のスペル・エストレージャ(スーパースター)となり、のちにウルティモ・ドラゴン、ザ・グレート・サスケなど、日本人ルチャドールを生む先駆けとなった。
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近年は体調を崩し、2018年に妻に先立たれたのを機に翌2019年から娘の浜田文子がいるメキシコにわたり、今年2月15日(現地時間)に入院先であるメキシコの病院で亡くなった。74歳だった。
現在の日本のプロレスは、メキシコのルチャリブレの影響抜きでは語れない。その偉大な先駆者であるグラン浜田のレスラー人生を、生前収録したインタビューとともに振り返ってみよう。
新日本は「俺じゃなくてクルマが欲しかった(笑)」
グラン浜田は1950年、群馬県前橋市生まれ。高校時代から柔道で活躍し、高校卒業後は河合楽器(製作所)に就職し実業団で柔道を続け、ミュンヘンオリンピックの柔道軽量級代表候補にもなった。そんな浜田が新日本プロレスに入るきっかけは、高校時代のライバルで友人でもあった関川哲夫、のちの(初代)ミスター・ポーゴが関係していた。
「関川とは学校は違うけどお互い柔道やってたから、俺が前橋であいつは伊勢崎で、よく県大会の決勝で当たってたんだよ。向こうは重量級で、こっちは軽量級だったけど、学年別とかになると体重関係ないから。大きな大会で、3回当たって2勝1敗だったね。
俺はまるっきりプロレスに興味なかったし、まともに観たこともなかったんだけど、就職したあと、ヤツ(ポーゴ)がレスラーになるっていうんでね。ヒマだし、クルマを持ってたから、『じゃあいいよ、送ってってやるよ』ってクルマで当時まだ旗揚げ前だった新日本の事務所に送っていったんだ。そしたら山本(小鉄)さんが出てきて、関川は入れてもらえることになって。俺はそれで帰ろうと思ったんだけど、山本さんが『おまえは身体が小さいけど、俺だって小さいんだから。おまえもやる気あるんだったらやってみろ』って言われて、そのまま入門しちゃった」
浜田の公称身長は167cm。大型選手が多かった当時のプロレス界ではあまりにも小さいが、それでも山本小鉄がプロレス入りを薦めた理由を次のように推察している。
「当時の新日は営業車もなかったから、俺のクルマは次の日から乗ってかれてさ。半年ぐらいで戻ってきたけどガタガタになってた。だから、本当は俺が欲しかったんじゃなくてクルマが欲しかったんだよな(笑)。
なんでプロレスに興味がなかった俺が新日に入ったかと言うと、要は簡単な話、柔道やってても食えないんですよ。階級制でやってたから、毎回、10kgぐらい体重落としてやってて、腹が減ってもメシが食えない。でも、プロレスは逆だもんね。『食って大きくなれ』だから、バンバン食える。こりゃいいな、と思ってね(笑)。新日に入ればメシ食い放題、練習し放題、カネはたいしてもらえなかったけど『これは最高だな』と思って入ったんだ」