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「カネは貯まったよ。月200万円以上…」故・グラン浜田が生前に遺していた“メキシコ豪快伝説”「猪木さんでも俺は投げられるんだよ。けど…」 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2025/03/09 17:24

「カネは貯まったよ。月200万円以上…」故・グラン浜田が生前に遺していた“メキシコ豪快伝説”「猪木さんでも俺は投げられるんだよ。けど…」<Number Web> photograph by AFLO

今年2月15日に亡くなったグラン浜田さんの現役時代(1982年撮影)

 浜田はメキシコでルチャドールとして大成功。売れっ子で毎日試合があり、休日は多い時で1日に5試合やったこともあった。

「俺は日本人契約で行ってるから、普通のメキシコ人よりギャラがもらえるわけよ。1試合でマンションの家賃払えたから。それで月に30試合以上やっていたから、家賃の30倍以上は稼いでいた。だからカネは貯まったよ。月に200万円以上貯金できたから。それは日本円でだよ? 向こうの貨幣価値にしたら、その何倍も貯まったことになるから。でも、しばらくしたらペソの貨幣価値が大暴落(笑)。もうドルにも円にも換えられないから、貯金なんかしないでとにかくメキシコ国内で使いまくったよ」

 浜田がメキシコで成功したのは、小さな身体を利したアクロバチックな“マリポーサ殺法”が現地でウケただけでなく、新日本で培ったものが大きかったという。

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「新日で基礎を学んだのは、メキシコに行ってからも凄いプラスになってる。こっちはガチガチの練習をしてきたし、柔道もやってたから、メヒコに行っても向こうの選手にはケンカでもなんでも負けない。新日の基礎に、メキシコ流のルチャをおかずとしていろいろ付けていたから、俺は余裕があったね。あとメヒコでは大事な試合になると階級別になるんだよ。だから余計に自分の本領が発揮できた。自分にピッタリの場所だったんだよ」

ジャパニーズ・ルチャの先がけに

 キャリアピークの大半をメキシコで過ごした浜田だったが、1979年に逆輸入のようなかたちで日本に一時帰国し、新日本のリングで本格的なルチャリブレを披露。’80年代初頭には人気絶頂だった初代タイガーマスクとも対戦し、その新日本のストロングスタイルとルチャリブレを融合させた闘いは、近年、日本のプロレスの主流となっているジャパニーズ・ルチャの先がけでもあった。

 浜田は、タイガーマスクに変身する前の佐山サトルをメキシコで世話しているが、日本で対戦したあとは佐山の才能を高く評価している。

「佐山は凄いよ。あいつはホント運動神経バツグン。俺はもう、かなわないと思った。俺はメヒコでの佐山を知ってるわけじゃない? その佐山が日本でマスクを被って飛んだり跳ねたりして人気があるって聞いたから、『俺ならもっと派手なことができるな』って思ったんだけど、実際にタイガーマスクになった佐山とやってみたら、ヤツは成長してたね。俺は『ルチャをやらせたら負けないよ』と思ったんだけど、佐山の動きはルチャとはまた違うヤツのオリジナルだから、あれは誰にも真似できない」

 その後、浜田は恩人である新間寿が1983年のクーデター事件で新日本を追われると、自身も新日本から離れて1984年は第一次UWFのオープニングシリーズに参戦。新日本とUWF、どちらの旗揚げにも関わったレスラーは浜田だけだ。

【次ページ】 日本のプロレスを変えた小さな巨人

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