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「寂しがり屋の浜ちゃん」グラン浜田74歳の死に思う…カメラマンが振り返る“メキシコの小さな巨人”の素顔「釣りとパチンコ、ラーメンが好きだった」
posted2025/02/19 17:01

「メキシコの小さな巨人」グラン浜田。絶大な人気者だった。1978年8月
text by

原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
グラン浜田(浜田広秋)が、2月15日にメキシコで74歳の生涯を閉じた。サンルイス・ポトシの病院で亡くなったという。
1978年、グラン浜田の家で過ごした1カ月
「ホテルなんか泊まっていないで、家に来いよ」と浜田に言われたのは1978年8月、藤波辰巳がメキシコシティのパラシオ・デ・ロス・デポルテスでレイ・メンドーサに勝ってWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を防衛した後だった。
浜田には妻のビッキーがいて、娘のソチとジャナの4人で暮らしていた。文子(アヤコ)が生まれるのはその後のことだ。浜田はメキシコシティのレフォルマ大通り沿いの高層マンション「スイーツ・テクパン」の15階に住んでいた。建物の名前さえ言えばタクシーが行ってくれた。まだ学生だった私は、これ幸いと浜田の家の居候になった。約1カ月、まだスペイン語はほとんどわからなかったが、浜田の家での生活で少しずつメキシコの文化や習慣というものを知ることができた。
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筆者が浜田の試合を日本で最初に撮ったのは1972年3月の新日本プロレス、旗揚げオープニングシリーズ第8戦の水戸大会で、前座の第1試合で藤波とのシングルマッチだった。浜田がまだデビューして間もない時だ。
浜田は体が小さかったので、新日本ではリトル浜田を名乗ったが、1975年にメキシコに渡るとグラン浜田にリングネームを変えて、大活躍した。そのスピーディでキレのある試合スタイルは人気を呼び「小さな巨人」はEMLL(現CMLL)のNWA世界ミドル級王座などを手にしていた。リンピオ(善玉)とルード(悪玉)にくっきりと色分けされた当時のメキシコで、リンピオとしてかなり売れっ子となり稼げるようになった。マリポーサ(蝶)というニックネームをあてがわれていた。
メキシコでは老舗EMLLからフランシスコ・フローレスの新勢力UWAに大量の選手引き抜きがあり、UWAがまさに勢いづいていた。UWAは1978年の8月から9月にかけて、5週連続で日曜日に2万5000人以上収容のパラシオでビッグマッチを開催した。
浜田の家は快適だった。寝室を一部屋あてがってくれて、ビッキーが料理を作ってくれた。ランチは浜田と何軒かの日本食店に順番に出かける。今日は「だるま」、明日は「大黒」、次の日は「東京」というように。私は初めてのメキシコを楽しむように遺跡巡りの旅もしていたが、試合の日は、夕方、浜田の車に乗って会場のアレナに向かう。アレナに着くと子供が寄って来て群がる。ルチャドールの荷物を持てば、一人は会場にタダで入れるからだ。浜田の人気は想像以上だった。ポスターの名前も大きかった。