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「あの電話のことは忘れられません」広島カープ・新井貴浩監督が明かす“阪神時代の岡田彰布監督”「自分にとって岡田さんは特別な存在です」
posted2024/12/16 17:00
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
Ryo Kawagoe
発売中のNumber1110号に掲載の[敵将の視点]新井貴浩「来年もプロレスしたかった」より内容を一部抜粋してお届けします。
新井貴浩が明かす“阪神時代の悔恨”
「すごい負けず嫌いの方なんで、岡田さんは。だからまだ監督やられるんだろうと、自分はてっきりそう思ってたんで。ちょっと、なんか残念なんです。来年も岡田さんと、岡田監督率いるタイガースと戦いたかった。これが正直な気持ちです」
新井貴浩はライバル球団の監督同士であるうちは口に出せなかった思いを吐露した。宮崎県日南市の夕刻、西陽を浴びた表情に惜別の色が見てとれた。
かつて岡田彰布が率いる阪神でプレーヤーとして戦い、その後、監督としても相見えた特異な関係性が両者にはある。何より過ごした時間と交錯した思いが濃密だった。
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「やはり自分にとって岡田さんという人は特別な存在です。自分を阪神に呼んでくれた人でもあるし、その2008年にいろいろなことが起きましたから。開幕からずっと突っ走ってマジックも点灯して、自分が怪我をして、そこからジャイアンツに……」
いまだ新井の胸に焼き付いているもののひとつが、阪神の主砲として残した悔恨である。
──2008年、岡田阪神はペナントレースを独走していた。7月末には2位巨人に10ゲーム以上の差をつけて、優勝マジック46を点灯させた。その原動力の一つが、広島カープからフリーエージェントで移籍してきた新井だった。岡田から主軸を任せられると、それに応えて7月までに50打点以上を叩き出し、得点源になっていた。
だが、水面下では暗転の兆しが忍び寄っていた。その年は8月に北京でオリンピックが開催された。日本代表の主砲でもあった新井は腰痛を抱えながらも強行出場したが、帰国直後に第五腰椎の疲労骨折が判明したのだ。
〈シーズン、無理かも分からんな〉
岡田は表情を曇らせた。その予見通り、新井は9月半ばになっても走ることさえできなかった。左足を地面につくたび、電気が走ったような痛みに襲われた。主砲の離脱と時を同じくして、独走していたチームは失速し、逆にはるか下にいたはずの巨人が追い上げてきた。二軍の鳴尾浜球場で治療の日々を送っていた新井はゲーム差が刻々と縮まっていく状況を何もできずに眺めているしかなかった。そして9月27日、巨人と1ゲーム差で迎えた甲子園での首位攻防戦の当日、昼間に携帯電話が鳴った。
「誰にも言わずに甲子園に来い」
「岡田さんから電話がかかってきたんです。こんな時間になんだろうと思って出たら、大丈夫か? と。大丈夫ですと言ったら、いけるか? と聞かれたんです」
試合に出られるか? 岡田はそう問うていた。北京から戻って以降、新井はバットを振っていなかった。その状況はトレーナーから岡田の耳に入っているはずで、試合に出られる状態でないことは百も承知のはずだった。それでも指揮官は新井を欲した。
「監督に『いけるか?』と言われたら、選手は『いけます』しかないんです。そうしたら岡田さんが『よし、誰にも言わずに(午後)5時に甲子園に入って来い。(出場選手)登録しておくから』と。あの電話のことは忘れられません」