- #1
- #2
プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
「猪木が秘書になってくれと言っている」燃える闘魂がホレた“福岡の老舗”とは?「後追いしそうに…アントニオ猪木がすべてなので」店主が語る猪木愛
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2024/10/01 11:01
アントニオ猪木が書いた「藤よし」の看板の前で笑顔を見せる「サダさん」こと店主の早川禎行さん
猪木と対面して「弟子入り」を直訴
サダさんの父親は女性客を増やすために、焼き台を備長炭から電気に変えた。客の着物や服に臭いがついてしまうのを避けるためだった。「食材を吟味して、技術と経験さえあれば、焼くのは炭でも電気でもいいんだ」という父親の信念だった。
若き日のサダさんは猪木のファンだけでは満足できなかった。猪木の弟子になろうと思った。猪木のいる新日本プロレスに入りたいと思った。
「アントニオ猪木がシルクロードをオフロードバイクで走ると言っていた頃です。当時、店で働いていた一つ下の後輩が、シルクロードを描いていた画家の息子だった。彼が『実は親父が猪木と知り合いなんです。そんなに猪木が好きなら親父に聞いてみますよ』ということになった」
サダさんが猪木と最初に会うことになったのは横浜アリーナ。30年前、猪木が始めた引退カウントダウンの2戦目で、1994年9月23日のウィリエム・ルスカ戦の時だった。
「坂口征二さんが控室の通路で鬼のような形相で仁王立ちしていたのを覚えています。猪木さんのいる部屋には横浜で老人ホームを経営していた方に連れて行ってもらいました。緊張でガチガチでした。新日入りを直訴しました。(反応は)『おお、そうか』くらいでしたが」
もちろんだが、何の連絡もなかった。2回目は1995年3月19日、愛知県体育館だった。
「やはりカウントダウンで藤原喜明戦の時でした。名古屋でプロモーターをしていた富野徹三さんに案内してもらいました。猪木さんの前で、何回もスクワットをやりました。1000回、2000回できますから。『また、おいで』で終わりましたけれど……。名古屋猪木事務所の酒井満天さんもいました。皆さんに名刺を渡して帰りました」
猪木にしてみれば、ファンが会いにきた、くらいだったのだろう。
「95年の参議院選挙の前に富野さんの所から電話があったんです。福岡に猪木さんが選挙事務所を開くから手伝ってほしい、東京から一人応援を出すから、と。その一人が今ノアの取締役をやっている武田有弘でした。まだ武田が大学を出てすぐで、新日本プロレスの事務所に入りたがっていた。水道橋の闘魂SHOPでアルバイトしながら席が空くのを待っていた頃だったと思います。昔は携帯電話がなかったので手紙でやり取りしていました。互いに『頑張れ!』って。武田とは今でも仲良しですよ。二人で捨て看を立てたり、ビラ配り要員を集めたりしました」