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内村航平「羽生(結弦)君も同じことを言っていて」冨田洋之「イチローさんと…」体操の天才2人が語る“トップアスリートの共通感覚”
posted2022/11/02 06:00
text by
長谷部良太Ryota Hasebe
photograph by
Kiichi Matsumoto
内村 冨田さんとこうして話すのは初めてなので、ちょっと変な感じがします(笑)。
冨田 日本代表として一緒だったのも'08年だけだったから、試合会場で会った時に「調子どう?」って話すくらいで。
内村 '07年に僕がユニバーシアード大会の代表に入った時、世界選手権の代表と合宿期間がだいたい同じだったんです。ホテルの部屋にいたら急に電話がかかってきて「冨田やけど。一緒にゲームやらへんか」って。僕は当時大学1年生で冨田さんともあまりしゃべったこともないのに、いきなりゲームなんて一緒にできるのかなと戸惑いながらやった記憶が……。
冨田 年齢差もあったし、もっとフランクになれればいいなと思って誘ったんだよね。内村を初めて見たのは高校生の時で、動きが洗練されていて、すごくいい子が出てきたなというのが第一印象だった。あれよあれよという間に代表まで上がってきて、うれしかったな。
僕らの世代はみんな冨田さんのマネを
――その日本代表に入って、世界一を極められた要因はどこにあるのでしょう?
冨田 僕はビタリー・シェルボ(※'92年バルセロナ五輪で6冠)を目標にしていたので、そこに近づくために自分なりの動きを追い求め続けた結果、日本代表になって'04年アテネ五輪で団体優勝できました。でも、翌年の世界選手権個人総合で優勝した後、10点満点制から、技の難度と完成度を別々に評価する採点方式にがらっと変わった。その際、世界チャンピオンとして自分がどうあるべきかという迷いが生じて、少し混乱した。内村はそういうことなかった?
内村 採点が変わったのは、高校3年になる時ですけど、当時は冨田さんがトップにいて僕らの世代はみんなマネしていました。「ああやればいいんだ」って。だから、変更で悩んでいたとは思わなかったですね。本当に意外です。僕は技が結構できていたので、たぶん、新しいルールが合っていたのかな。優勝していた頃は、2位と2、3点差があったり、ちょっと余裕があったのかなと思います。
冨田 強すぎたんだね(笑)。
内村 それは自分では(笑)。ただ、少し物足りなさは感じていました。それに、自分自身に勝たないといけないところがつらかった。毎年毎年、過去の自分を超えないといけない。北京の頃はまだスペシャリスト志向で、個人総合へのこだわりもそれほどなかったんです。'08年に冨田さんが引退されて、自分がやらないといけない立場になっていって。世界選手権で個人総合3連覇して、ロンドン五輪を制してから、徐々にそういう気持ちが出てきました。