プロ野球PRESSBACK NUMBER
あの野村克也が驚いた「データ通用しない」ある日本人投手…じつは“メジャーも欲しがっていた”山田久志の伝説「美しいアンダースローで284勝」
text by
太田俊明Toshiaki Ota
photograph byKYODO
posted2024/08/25 06:01
「アンダースローで284勝投手」山田久志の伝説とは
「監督の西本幸雄が『この世界で長くやるためには、最後はコントロールや』と言っても、『だけど速かったら打たれませんよ』と反論した。このことは、山田が引退してから西本に『お前だけや、俺に反抗したのは』と苦笑されたという」<ベースボールマガジン2011年5月号>
じつは「メジャー球団が興味」
1971年秋の日米野球で、ボルチモア・オリオールズが来日した。オリオールズは前年のワールドチャンピオンで、この年もアメリカンリーグを3連覇していて「日米野球史上最強」と言われた強力チームだった。
このオリオールズを相手に、山田は第5戦で4回を無安打。第12戦では2失点の完投勝利で、日本に初勝利をもたらした。この快投に、日米野球終了後にオリオールズから1年間のレンタル移籍の話があったという。<ベースボールマガジン2023年10月号>
野茂英雄がメジャーへの扉を開いた1995年の24年前である。もし山田が海を渡っていたら、日本の美しいサブマリンがメジャーを席巻していたかもしれない。
ライバル登場で…27歳で引退を考えた
そんなスーパーエース山田にも現役時代、ユニフォームを脱ぐ寸前までいった苦難の時期があった。入団5年目の73年。膝を痛めたことから球威が落ち、リーグワーストの32本の本塁打を浴びて、防御率も3.57まで悪化した。この年、チームも3連覇を逃がして、その責任をとって恩師・西本が辞任。代わった上田利治監督によって、翌74年に山田はリリーフに配置転換された。
自身の投球に限界を感じた山田は、シンカーを武器にする同僚のアンダースロー、足立にその投げ方の教えを乞うが拒否される。足立は、山田にシンカーを教えたら自分の出番が減ることを恐れたとされる。
こうして迎えた1975年。阪急に超ド級の新人・ 山口高志が入団する。山口は、「史上最も球が速かったのは誰か」という話題で常に名前が上がる速球王で、あの野村克也も「新人の時の山口が一番速かった」と記している。