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夏の甲子園でホームラン→六大学で主将→JTB退職「アマ野球引退後、社会人の安定」を捨てて…JICAでドミニカ野球にホレた43歳の人生 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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photograph byTomohito Sakanaga

posted2024/05/31 11:03

夏の甲子園でホームラン→六大学で主将→JTB退職「アマ野球引退後、社会人の安定」を捨てて…JICAでドミニカ野球にホレた43歳の人生<Number Web> photograph by Tomohito Sakanaga

新潟明訓高校時代の阪長友仁氏(右から2人目)。アマ野球時代に華麗な経歴を持つ42歳はなぜ、安定した社会人生活からJICAへと進路を取ったのか

「1年秋からベンチに入れてもらって、2年生からは試合に出させてもらっていたんです。3年になって春の開幕戦は早稲田大でした。僕はスタメンで、和田毅投手と当たったのですが、3打席連続で3球三振して、斎藤監督に『お前はもう使わない』と言われた。おそらく発破をかける意味で言ったのだと思うんですが……。

 僕も、このまま努力しても和田投手みたいな投手を打てる気がしなかった。今、思えば僕は高校時代そのままの金属バット打ちが身についてしまって、木製バットのインサイドアウトのスイングができていなかった。それで、僕は右打ちから左打ちに転向しようと思ったんです」

 左投手の和田毅が打てないからと言って、左打者に転向する――阪長氏はこれまで一度も左で打ったことがなかったのに、突然そう決心する。

「最初は、置きティーでさえも空振りする始末で、監督も『お前、何してるんだ。早く右で打て』と言ったんですが、僕は『監督がもう使わないと言うから、僕は左で打つんです』と言って、そのまま左打ちを続けてたら、3年秋にスタメンを勝ち取って公式戦に出場した」

JTBの仕事はやりがいがあった。だけど…

 このあたりの飛躍は、彼の人生にはしばしばみられるが――4年生になると阪長氏はキャプテンに任じられる。

「4年春は、スタメンに定着できませんでしたが、秋は規定打席には到達しなかったものの3割9分くらい打ったんですね。この時期は1番を打っていました」

 阪長氏は社会人野球に進むことも一時は考えた。しかし、実力的にやや及ばずで、就職活動をして内定を貰っていたJTBに入社した。

「野球とは全然関係がない一般社員です。大阪に戻って、修学旅行の企画と添乗員をしました。主に中学生相手でしたが、やりがいはありましたし、面白かったですね。

 でも、このままずっとこの仕事をすることはちょっと考えられなかった。

 これまで野球に育ててもらったんだから、野球に恩返ししたい気持ちにもなって、“何ができるんやろう”と思ったときに、ある人から『海外で野球を教えている人もいるよ』と言われました。野球という競技は世界ではまだまだマイナー競技で、自身がJICAを通して海外で野球の楽しさを伝えることができれば、少しでも野球という競技に恩返しができるのではないかと思いました」

JICA合格→南米経由で行きついたドミニカ

 JICAはボランティアではあるが、国費で海外に派遣される職務である。競争率は十数倍の狭き門だった。

 阪長氏は2度目の不合格通知を受け取った際に、行き先も決まらぬまま会社を退職した。

【次ページ】 「ドミニカ共和国の野球」にのめり込んだ

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