酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
夏の甲子園でホームラン→六大学で主将→JTB退職「アマ野球引退後、社会人の安定」を捨てて…JICAでドミニカ野球にホレた43歳の人生
posted2024/05/31 11:03
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Tomohito Sakanaga
阪長友仁氏は、野球指導者というよりは、野球界そのものの変革を志している野球人だ。「イノベーター」という表現が良いのかもしれない。
文武両道を目標に、大阪から新潟へ
阪長氏は1981年生まれ。「松坂世代」の1学年下だ。
「大阪府の北東部にある交野(かたの)市の出身で、小学1年生から少年硬式野球のボーイズリーグのチームに入りました。1学年数人という規模で、大阪最弱じゃないかというくらい弱いチームで、それだけに投手も野手もいろいろやりました。小学校1年の2月から中学3年までですから、8年以上もやっていたんですね」
中学3年で、阪長少年は「甲子園」を意識する。
「当時の大阪では上宮、PL学園、近大付属などに行かないと、甲子園には行けない可能性が強い。自分の実力ではそんな学校からスカウトされるはずもない。僕は、甲子園にはいきたいと思ったけど、野球は高校まで。あとは勉強して大学に行って、パイロットか航空管制官になりたいという夢もあった。それを考えると文武両道の学校に行くべきで“大阪を出ないと”と思ったんです」
一般的な「野球留学」とは少し違う動機のように思えるが、学校案内などを探して、新潟県の新潟明訓高校に行きついた。
「僕が中学3年の時、センバツに新潟明訓が出場していました。この学校は、同時に進学校でもあったんですよ。それを知って、これなら甲子園に行って勉強で大学にも行けると思って連絡をしたんです。でも当時の新潟明訓は、県外からきている生徒は全くいなかった。だから『ここは大阪から来るような学校じゃないですよ』と言われたんですが、入試を受けて合格しました」
母からは「地元の高校も受けなさい」と言われたが
両親ともに地元交野市の公務員。父親は何も言わなかった。母は「地元の高校も受けなさい」と言ったが、自分の希望を押し通した。
新潟明訓高は、佐藤和也監督(現新潟医療福祉大総監督)が就任してから強くなり、この時点で夏2回、春1回、甲子園に出場していた。