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夏の甲子園でホームラン→六大学で主将→JTB退職「アマ野球引退後、社会人の安定」を捨てて…JICAでドミニカ野球にホレた43歳の人生 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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photograph byTomohito Sakanaga

posted2024/05/31 11:03

夏の甲子園でホームラン→六大学で主将→JTB退職「アマ野球引退後、社会人の安定」を捨てて…JICAでドミニカ野球にホレた43歳の人生<Number Web> photograph by Tomohito Sakanaga

新潟明訓高校時代の阪長友仁氏(右から2人目)。アマ野球時代に華麗な経歴を持つ42歳はなぜ、安定した社会人生活からJICAへと進路を取ったのか

 自費でスリランカやタイへ渡りナショナルチーム等を指導、その後、アフリカのガーナで北京オリンピック予選の監督を務めたのち、4度目の挑戦でJICAに合格した。

「JICAから最初に派遣されたのが南米のコロンビアでした。コロンビアからはメジャーリーガーも出ていますが、野球が盛んなのはカリブ海沿岸の一地域で、サッカーの方が盛んでした。僕は主にコロンビア第3の都市のカリという町で、野球の振興とか普及の業務に就きました。

 その後、野球以外の世界も見ようと思ってJICAの企画調査員になりました。派遣される国の政府関係者や受け入れ機関と折衝し、その国の開発に携わる仕事です。オフィスは中米グアテマラの首都グアテマラシティにあったのですが、治安がものすごく悪くて日中でも街中を歩けないようなところで、ストレスがたまったので休暇が取れれば比較的治安の良いドミニカ共和国とか、キューバなどに行きました。

 これまでスペイン語圏で仕事をしていたから、言葉は通じた。そしてドミニカ共和国で、メジャーリーグ球団のアカデミーに接して『なんだこれは』と思った。日本と180度違ったシステム、指導方法でメジャーリーガーをたくさん輩出している野球を見て突然目が覚めるような感覚に襲われました」

「ドミニカ共和国の野球」にのめり込んだ

 ここから阪長氏は「ドミニカ共和国の野球」にのめり込む。選手の育成システムや指導を学びたいと思うようになった。それが、日本の少年野球指導の新たな潮流、さらにはDeNA筒香嘉智の行動・発信へとつながることになる。<つづく>

#2に続く
「ナイター後、車で宿に戻るのは夜中2〜3時」筒香嘉智24歳がデバース、ポランコらとドミニカで…サポートした阪長友仁43歳が見たリアル

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